寅さんの街に相撲部屋が残る。3月いっぱいで部屋が閉鎖された東京・柴又にある旧東関部屋に1日、埼玉・所沢から二子山部屋(元大関雅山)が移転して活動を始動させる。

部屋は先代東関親方(元前頭潮丸)が、東京都墨田区東駒形から、18年1月に柴又へ移転。だが、その先代が翌19年12月に死去し、現東関親方(元小結高見盛)が部屋を継いだが、精神的負担の重さから難色を示し、継承から1年で部屋封鎖となった。

思い出すのは18年2月17日、柴又で部屋開きをした時の、希望に満ちあふれた先代東関親方の満面の笑みだ。部屋開きには八角親方(元横綱北勝海)はじめ一門の親方衆や、部屋を創設したジェシーこと先々代東関親方(元関脇高見山)が祝福に駆けつけ、現在大関の朝乃山(高砂)ら関取衆が稽古し門出を祝った。取材ノートをひもとくと、師匠の言葉の端々に、その心情がくみ取れた。「こういう形で、いろいろな方にも来てもらってうれしいです」「まず最初にすることは関取を出すこと」…。

約150坪の土地は、葛飾区が観光戦略など地域活性化の狙いから、有償で貸し出されたもの。そのことも忘れず「外国の方にも稽古場に来てもらって(柴又の名所)帝釈天にも足を運んでもらえれば」と、うれしそうに話していた姿が、昨日のことのように思い出される。それから2年もたたず、41歳の若さで天寿を全うするとは思いもしなかった。志半ばでこの世を去り、部屋も移転からわずか3年ほどで閉鎖。地元も一時は落胆した。

部屋から徒歩5分にある「もんじゃ お好み焼き あかり」。住宅街に囲まれた静かな環境にあるため、部屋からは最も近い飲食店だ。光るちょうちんが目印の、アットホームなその店が力士たちの数少ない、いやしの場だった。「礼儀正しい、とてもいい若い子たちばかりで、本当に応援したいと思いました。ネットニュースで部屋がなくなることを知って、お客さんも『さみしいね』と残念がってました」。そう語るのは店主の水戸貞子さん。コロナ禍でも場所明けは、師匠の許可を得て力士は外出が許される。「(PCR)検査を受けて陰性だから大丈夫です」「ぜひ稽古見学に来てください!」と元気な声で来店する若い衆の姿に、水戸さんも心和まされた一人だ。

部屋から歩いて1分もかからない所にある「リヨンセレブ柴又店」。名物の塩豆あんぱんや、カリカリのカレーパンなど美味の焼きたてパンを求めて、前東関部屋の力士たちも通ったベーカリーショップだ。「柴又は3世代で住んでいらっしゃる家が多く(3年前に)部屋ができたときは、おじいちゃん、おばあちゃんが『どこに部屋があるんだ?』と店に訪ねてきたり、皆さん喜んでましたよ。外国人のツアーも来て話題になりました」と当時を振り返るのは店長の山下裕子さん。何年か前に台風で大型倉庫が転倒した際には、力士たちが率先して直してくれたという。「その時はスタッフが不在で、そんなことがあったのは知らなかったんですが後日、おかみさんから教えてもらいました」と山下さん。「買い物に来ていただく時は特に会話はなかったんですが、無口な分、優しい。表には決して出さない縁の下の力持ちというんでしょうか。いい人たちばかりでした」。先代が亡くなった時、そして部屋閉鎖が決まった報道が広まった時は、来店客も「部屋はどうなるんだろう」「どこかの部屋が来るんだろうか」と気をもんでいたという。それも二子山部屋の移転で好転する。「強い力士さんがいなくても応援しますよ。コロナ禍にあって明るい話題ですね」と山下店長は周辺住民の気持ちを代弁するように話してくれた。

周囲も落胆した閉鎖のニュースから、わずか1カ月。新しい部屋が引っ越して、再び相撲部屋が存続する。亡き先代が部屋を構えた時に「帝釈天でパレードできるような力士を育てたい」と夢を膨らませ語っていたことも心に残る。ただ、寅さんシリーズとなった映画「男はつらいよ」の舞台となった、その帝釈天周辺を取材すると、相撲熱はいまひとつ。部屋からは徒歩15分ほどかかり、力士が散策していた姿を見たことがあるという声は、地元観光案内所はじめ関係者からは聞かれない。力士たちの“通勤ルート”から外れていることも一因だ。

先代の夢をかなえ、明るい話題を帝釈天周辺にももたらす期待も、移転してきた二子山部屋は担う。先々代と1歳年上の二子山親方は言う。「亡くなった(先代東関親方の)潮丸さんとは現役時代から仲が良かったので、その遺志を引き継ぎたい。今はコロナ禍で、すぐには難しいかもしれませんが、地元の方々と触れ合って地域の活性化に貢献したい」。優勝パレード、昇進パレードが帝釈天周辺や参道で実現すれば、天国から先代東関親方も、そして寅さんも、ほほ笑みながら見つめることだろう。【渡辺佳彦】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)