故ジャイアント馬場さん(享年61)夫人で、元全日本プロレス社長の馬場元子さんが、肝硬変のため14日に亡くなっていたことが23日、分かった。78歳だった。

 全日本プロレスの名誉レフェリーを務める和田京平さん(63)が同日、日刊スポーツの取材に応じ明かした。和田さんによると、元子さんは、昨年の夏前に肝臓の病気が悪化し6月に都内の病院に入院。その後「余命2週間」と医師から宣告されたという。一時は病状も回復したが、13日に容体が急変し、14日午前中に亡くなったという。19日に通夜、20日に告別式が親族のみで執り行われた。

 元子さんは、15歳のときに当時プロ野球巨人の投手だった馬場さんと知り合った。その後、1966年に婚約したが、結婚が明かされたのは、82年になってからだった。その間、「馬場さんの私設マネジャー」と言われたように、全日本プロレスを立ち上げ、運営する際に主に経営面から馬場さんをサポートした。99年1月31日に馬場さんが死去すると、新社長となった故三沢光晴さんの元、取締役に就任。経営方針の違いで、三沢さんらが離脱してノアを設立すると、00年に元子さんは社長に就任。川田利明ら、残った選手は少なかったが、天龍源一郎を全日本に復活させ、武藤敬司を新日本から迎えるなど、馬場さんが残した全日本の存続に力を尽くした。

 その後、武藤に社長の座を譲り、経営からは身を引いていた。和田レフェリーは「酒もタバコもやらないのに、肝硬変で亡くなるなんて。4、5カ月前に病院でお見舞いしたときは、元気いっぱいで、嫌みを言われた。病院に入っても強かったね。60歳すぎても怒られるのはオレぐらい。怒ってくれる人がいなくなって本当に寂しいよ」と話していた。三沢さんらが大量離脱した際に、全日本に残り元子さんを支えた渕正信(64)は「体調が悪いと聞いていたが、まさかそこまでとは。最後まで弱っている姿を見せたくなかったのかな。01年に馬場さんの三回忌を東京ドームでやったときに、『三回忌だけはしっかりやりたい』と頑張っていた」と振り返った。渕が元子さんの元気な姿を最後に見たのは、2年前の全日本プロレスの新潟・三条市大会。馬場さんの名誉市民記念試合で、元子さんがあいさつした姿だったという。「具合が悪いので、リングに上がれずにリングサイドであいさつしていた。あのころから体調が悪かったのかな」と話した。