プロレスラーの藤波辰爾(67)が9日、デビュー50周年を迎えた。連載第3回は、アントニオ猪木との50年。入門時から家族よりも長い時間をともにしてきた師匠は、藤波にとって今でもかけがえのない存在だ。【取材・構成=松熊洋介】

藤波は日本プロレス入門から半年後、除名された猪木と一緒に脱退、翌年の新日本旗揚げに参加した。「今の新日本を作っている」という当時の猪木の練習はとにかく厳しかった。年200日以上の試合をこなしながら、練習も手を抜くことは許さなかった。つまらないパフォーマンスをすれば、試合中でもリングに乱入してきて殴られた。試合前に角材で殴られ、流血しながらリングに上がったこともあったという。藤波が78年に海外から帰国し、「ドラゴンブーム」の人気絶頂時でも、全体に気合を入れるための見せしめとして、殴られ続けた。

藤波 試合を止めることもよくあった。お客さんはただ猪木さんが乱入してきただけだと思っていて、実際には何が起こっているのか分かっていない。相手のことよりも、いつ猪木さんが控室から竹刀を持ってやってくるか、びくびくしながら試合をしていた。馬場さんの全日本に負けるな、というのもあったと思う。

ファンの目も肥えていき、つまらない試合には容赦なくヤジが飛んだ。ファン同士のケンカも日常茶飯事だった。

藤波 リングに上がったら鳥肌が立って、ぞくぞくしていた。緊張感で殺気立っていたし、試合前に控室で相手と話したり、笑ったりすることもなかった。

練習や試合後は毎日のように猪木と食事をともにした。「昼間殴られていても関係なかった」と猪木の周りに集まり、故・力道山など昔の話を聞き入った。朝でも夜中でも走る猪木について行き、一緒にトレーニングした。朝まで飲み明かしたり、羽目を外す選手もたまにはいたが、藤波含め、ほとんどの選手は厳しい練習の疲れを取るために休養を優先していた。

藤波 一番上の人が1番練習するから僕らも休むことができない。みんな気が張ってダラダラしていられなかった。

猪木の「お客さんから金をとれる体を作れ」という教えを守り、プロレスラーとして長くリングに上がる体を作り上げた。日本プロレス入門から半世紀以上の付き合いになる猪木とは、引退後も交流は続く。2年ほど前まで毎月1回、夫婦で食事会をしていた。猪木の前では今でも緊張して直立不動になることもあるという。

藤波 妻は「お互いに良い年なのに」と不思議がるが、50年たっても関係性は変わらない。僕にとっては永遠の師匠。

今の藤波のプロレスを作ったのは間違いなく猪木の存在が大きいが、実はもう1人、50年現役の藤波にとって「今の自分がいるのは彼のおかげ」という男がいた。(つづく)

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ) 1953年(昭28)12月28日、大分県生まれ。中学卒業後、70年に日本プロレスに入団。猪木の付き人をしながら、71年5月9日、北沢戦でデビュー。71年猪木らとともに新日本プロレス移籍し、旗揚げより参戦。75年に欧州、米国遠征し、76年NWAデビュー。78年WWWFジュニアヘビー級王座を獲得(その後防衛計52回)し、帰国。81年ヘビー級転向。88年にIWGPヘビー級王者に輝く。89年に腰痛を患い、1年3カ月休養。99年に新日本プロレス社長就任、03年に辞任。07年無我(後のドラディション)の代表取締役に就任。15年3月WWE殿堂入り。183センチ、105キロ。