元プロレスラーの天龍源一郎(71)のアスリート人生の連載第4回は押尾川事件。幕内に定着し、大関、横綱が目指せる自力をつけた天龍だったが、75年3月、第8代二所ノ関親方(元佐賀ノ花)の死去後の相続争いに巻き込まれ、翌年9月に廃業。その後全日本プロレスに移籍した。【取材・構成=松熊洋介】

二所ノ関親方が病で余命わずかとなった74年、大関だった大麒麟が引退し、押尾川を襲名。そのまま部屋を継承するかと思われた。ところが引退し大鵬部屋を立ち上げていた元横綱大鵬も候補に挙がり、事態は混乱。後に大鵬は辞退し、部屋を継いだのは、故・二所ノ関親方の次女と結婚した金剛だった。「押尾川さん(大麒麟)が継ぐと思っていた」という天龍は、仲間の力士とともに二所ノ関部屋から分裂した。

天龍 大鵬さんが戻ってくれば部屋も大きくなる。頭になって理事長になるかもしれなかったのに、なんで、大麒麟さんについて行ったのかと思うこともあったが、部屋のために尽力していたし、継ぐのが筋だと思っていた。

その後、押尾川部屋への移籍が認められず、二所ノ関部屋に残ることになった天龍は、土俵にこそ上がれたが、場所前の激励会に呼ばれないなど、部屋の中では、のけ者扱いをされた。「周りからは『何でいるんだよ』という目で見られた。ずっと幕内にいたのに惨めだった」と当時のことを明かす。

もやもやしたまま1年がたち「ここにいるのは俺じゃない」と思い始めていた天龍の気持ちを知ってか、ある新聞記者から「プロレスに行ってみたら?」と声をかけられた。寝耳に水だった。子どものころに父親と見ていたが、それまで全く興味がなかった。全日本プロレスのジャイアント馬場さんを紹介され、プロレス好きな部屋の若い衆に教えてもらいながら技を習得。妻の後押しもあり「部屋で邪魔者扱いされるなら」と26歳で転向を決意した。

相撲で鍛えた足腰に自信もあって最初は「こんなの簡単だよ」と高をくくっていたが、すぐに打ち砕かれた。受け身を身につけていなかったため、力を逃がす技術がなく技をまともに食らった。故・ジャンボ鶴田さんに初歩的な技で投げ飛ばされ、息ができなくなり、横にいた淵正信から「プロレスも簡単じゃない。大変なんだよ」と言われ改心。ベンチプレスなどで上半身を徹底的に鍛え、これまで以上に自分を追い込んだ。「相撲の時にもう少し、一生懸命やっていたらもっと強くなっていたのかも」と思うこともあったという。

76年10月の入門後すぐに米国に渡り、ザ・ファンクスのもとで修行。特にドリー・ファンク・ジュニアからはノウハウを細かく学んだ。11月に米・テキサス州でプロレスデビュー。帰国後断髪式を行い、77年6月、東京世田谷体育館で日本でのデビューを果たした。故・ジャイアント馬場さんとのタッグで勝利を飾った。プロレス界に導いてくれた師匠から期待をかけられていた天龍はその後、全日本を引っ張る存在に成長していく。(つづく=第5回は全日本プロレスでの飛躍)

 

◆天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう) 本名・嶋田源一郎。1950年(昭25)2月2日、福井・勝山市生まれ。63年12月に13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門。64年初場所で初土俵を踏み、73年初場所で新入幕。幕内通算108勝132敗、最高位は前頭筆頭。76年10月に全日本入り。90年に離脱し、SWSに移籍。WARを経てフリーに。WJ、新日本、ノア、ハッスルなどにも参戦した。10年に天龍プロジェクト設立。15年11月に現役引退。獲得タイトルは、3冠ヘビー級、世界タッグ、IWGPヘビー級など多数。得意技はDDT、ラリアット、グーパンチなど。