元プロレスラーの天龍源一郎(71)のアスリート人生の連載第5回は全日本プロレスでの飛躍。日本でのデビュー戦から故・ジャイアント馬場さんとタッグを組むなど“一流”の扱いを受けていた天龍は、期待に応え、全日本のトップまで駆け上がった。【取材・構成=松熊洋介】

77年6月の日本でのデビュー戦で馬場さんとのタッグで勝利を収めた天龍。同年12月の世界オープンタッグ選手権では全日本の推薦出場で初対戦も果たした。角界から転向してきたとはいえ、プロレスでは新人。大事に育てられ、わずか半年でデビュー。若手選手からはうらやましがられた。

天龍 下積みから頑張ってきた人もいるので、ねたまれた。最初は負担だった。俺なんかが組んでいいのかと。

それでも数十秒で勝負が決まる相撲と、長いときは1時間近くにも及ぶプロレス。スタミナ不足であっさり負けることも多く、デビュー後は納得のパフォーマンスができずに苦しむ時期が続いた。

天龍 相撲は勝てばお客さんは沸くが、プロレスは技も何も出さないと『金返せ』と言ってくる。技の蓄積とか経験がないとしのいでいけない職業。

入門時から面倒を見てくれた馬場さんは見守る人だった。社長という立場もあり、直接アドバイスをすることもなく、背中で見せ、自分で考えさせた。天龍は「俺のやっていることを見て勉強しろよ、という感じ。厳しくはなかった。ダメでも怒られたことはない」と語る。上がるも落ちるも自分次第だと考えた天龍は、器用な方ではなかったが、周囲の期待を感じながら、相撲以上に努力を重ねていった。

天龍 どうにかしてプロレスで地位を築こうと思っていた。相撲でダメ、プロレスでダメとなったら立場がないと思って必死で食らいついた。

81年、海外遠征後に馬場、鶴田組のインターナショナル・タッグ王座に挑戦。敗れはしたが、その後の飛躍につながる一戦となった。「2人と対戦できるようになって一人前になってきたのかな」と手応えを感じ始めた。その後もトップで活躍していた故・ジャンボ鶴田さんとタッグを組み、83年世界最強タッグ決定リーグでは準優勝。「鶴龍コンビ」として一時代を築いた。

全日本のエースとなった天龍は84年にUNヘビー級王者に輝くなど力を付け、全日本に参戦してきたジャパンプロレスの長州らと抗争を繰り広げた。鶴田との鶴龍対決はベストバウトを獲得するほどの人気カードとなった。89年に三冠ヘビー級王座を獲得した天龍はその後、プロレ界唯一と言われる偉業を達成することになる。(つづく=第6回はレジェンドからのピンフォール勝ち)

 

◆天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう) 本名・嶋田源一郎。1950年(昭25)2月2日、福井・勝山市生まれ。63年12月に13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門。64年初場所で初土俵を踏み、73年初場所で新入幕。幕内通算108勝132敗、最高位は前頭筆頭。76年10月に全日本入り。90年に離脱し、SWSに移籍。WARを経てフリーに。WJ、新日本、ノア、ハッスルなどにも参戦した。10年に天龍プロジェクト設立。15年11月に現役引退。獲得タイトルは、3冠ヘビー級、世界タッグ、IWGPヘビー級など多数。得意技はDDT、ラリアット、グーパンチなど。