日本プロボクシング協会は5月19日を「ボクシングの日」と制定している。1952年(昭27)のこの日、東京・後楽園球場で白井義男さん(享年80)が世界フライ級王者ダド・マリノ(米国)に判定勝ちを収め、日本人初の世界王者になった。第2次世界大戦の敗戦から7年。日本国民を熱狂させたあの快挙から今年で70年を迎える。白井さんの妻登志子さん(90)が当時の思い出を語った。【取材・構成 首藤正徳】

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70年前の5月19日の夜、東京都北区の白井邸は、大勢の報道陣であふれ返った。当時、白井さんの婚約者だった登志子さんが、世界戦のラジオ中継を聴く様子を取材するためだった。

登志子 まだテレビのない時代で、報道関係者の要望で、白井の部屋で主人の母と一緒に15ラウンドずっとラジオの前に座っていました。身動きが取れないほど人が殺到して、私が手を動かすだけでフラッシュがたかれました。ボクシングのことは分からなかったのですが、最後はああ勝ったんだと、思わず泣いてしまいました。

会場の後楽園球場は4万人超の大観衆で埋まった。序盤は一進一退。7回、白井さんはマリノの左フックを浴びて意識を失いかけたが、ラウンド終了後にセコンドのカーン博士から「ウエークアップ、ヨシオ」の言葉とともに、背中をバシッとたたかれて目を覚ました。後半は得意の右ストレートが再三ヒット。3-0の判定勝ちで、日本人初の世界王者が誕生した。

登志子 試合後は自宅の庭が人で埋め尽くされました。縁側にまで入ってきて、その重さで曲がったほどです。帰ってきた主人もなかなか家に入れませんでした。縁側に出て主人が手を振ると、庭の池に何人もの人がバシャバシャと落ちて、大変な騒ぎでした。

 

戦前にデビューした白井さんは8戦全勝の有望株だったが、44年に入隊した海軍航空隊で腰を痛め、終戦後は低迷した。転機は48年7月。ジムを訪れた連合国総司令部(GHQ)に所属するアルビン・カーン博士が、白井さんの素質を見抜き、コーチ兼マネジャーを申し出たのだ。「藁(わら)をもつかむ気持ちでお願いしました」と後に白井さんは語っている。

“打たれても打つ”肉弾戦主流の時代に、カーン博士は徹底して左ジャブと防御技術を白井さんにたたき込んだ。「変な外人につかまったもんだ」とジム仲間に冷笑されたが、白井さんはカーン博士を心底から信頼し、尊敬していた。一方、カーン博士も栄養価の高いステーキやハンバーグなどを米軍食堂から調達して愛弟子に食べさせ、ハワイ遠征費もすべて負担した。

登志子 カーンさんが持参する食べ物で、主人は体ができたようです。ニンジンが目にいいと言われて、私もニンジンをサイの目に切って食事に出しました。彼はファイトマネーに手をつけることも一切ありません。主人がなぜここまで面倒を見てくれるのかと聞いたら「君が正直者だからだ」と答えていました。

カーン博士の科学的ボクシングで、白井さんは連戦連勝。フライ級とバンタム級の日本王座を2階級制覇すると、51年11月にはハワイに遠征し、ノンタイトル戦で世界フライ級王者マリノに7回TKO勝ちを収めて、正式に世界王座挑戦が決まった。日本での世界戦実現のため、急きょ統括組織の日本ボクシングコミッションが設立された。

登志子 カーンさんは試合が決まると必ず詳細な練習と減量のスケジュールを立てます。主人は決められた通りに体重を落とすんです。連日、ジムに報道陣が殺到するので、カーンさんは1日だけ練習公開日をつくりました。それが、今も続いている公開練習の最初なんです。

 

白井さんは世界王座初防衛後の52年12月に登志子さんと正式に結婚した。当時、世界王者は全8階級に1人ずつ。そんな時代に4度も王座防衛に成功した。しかし、自宅で白井さんがボクシングの話をすることは一切なかったという。

登志子 主人は私にボクシングのことで心配させたくないという思いがとても強かった。優しい人でした。だから私も試合が近づいたら、家庭の心配事は主人の耳に一切入れないように努めました。私は1度も試合を見たことがありません。食事をつくって、身の回りの世話をすることに徹してしました。

引退後、白井さんは独り身のカーン博士を家族の一員として迎え、71年に78歳で亡くなるまで一緒に暮らした。

登志子 主人は引退してからも、ずっとカーンさんの教えを守り続けました。それは「世界チャンピオンとして恥ずかしくない生活を送ること」。それが主人の生涯のモットーでした。 白井さんは03年12月26日に80歳で亡くなったが、白井家では現役時代から今も続いていることがある。

登志子 5月19日の記念日と、主人の誕生日の11月23日に、お赤飯を炊いてお祝いするんです。ずっと続けています。もちろん今年も炊きますよ。それが今の私の生きがいにもなっていますから。

 

◆白井義男(しらい・よしお)1923年(大12)11月23日、東京・荒川区三河島生まれ。43年(昭18)に拳道会に入門。戦前は8戦全勝。その直後に召集され海軍に入隊。終戦翌年の46年に現役復帰。49年1月に日本フライ級王座、同12月に同バンタム級王座を獲得。52年5月19日、世界フライ級王者ダド・マリノ(米国)を下して、日本人初の世界王者となり4度防衛。通算成績は50勝(22KO)9敗4分け9EX(エキシビション)。引退後は解説者・評論家として活躍。03年12月26日、肺炎で死去。享年80。