元プロレスラーで参議院議員も務めたアントニオ猪木さんが1日午前7時40分、都内の自宅で心不全のため亡くなった。79歳だった。力道山にスカウトされ1960年(昭35)に日本プロレスでジャイアント馬場さん(故人)とともにデビュー。72年に新日本プロレスを旗揚げし、プロボクシング世界ヘビー級王者ムハマド・アリ(米国)との異種格闘技戦など数々の名勝負を繰り広げた。

◆クリス・マルコフ戦(69年5月16日、東京都体育館)

第11回ワールドリーグ戦の決勝トーナメントで対戦。マルコフのラフファイトに流血の苦戦を強いられたが、最後は卍固めで逆転勝ち。もう1試合は馬場とボボ・ブラジルが引き分けていたため、猪木の初優勝が決定。ライバル馬場に肩を並べた。

◆ドリー・ファンク・ジュニア戦(69年12月2日、大阪府立体育会館)

ドリー・ファンク・ジュニア(手前)の腕を決める猪木=1970年8月4日
ドリー・ファンク・ジュニア(手前)の腕を決める猪木=1970年8月4日

猪木が当時世界最高峰と呼ばれたNWA王者ドリー・ファンク・ジュニアに初挑戦。試合巧者の王者に真っ向勝負を挑み、3本勝負だったが1本も許さず、60分フルタイムドロー。王座奪取はならなかったが、猪木の高い潜在能力を世界に示した一戦だった。

◆カール・ゴッチ戦(72年10月4日、蔵前国技館)

世界ヘビー級タイトルマッチ 猪木対カール・ゴッチ=1972年10月4日 
世界ヘビー級タイトルマッチ 猪木対カール・ゴッチ=1972年10月4日 
カール・ゴッチ(左端)に勝利した猪木。中央はレフェリーを務めたルー・テーズ=1972年10月4日
カール・ゴッチ(左端)に勝利した猪木。中央はレフェリーを務めたルー・テーズ=1972年10月4日

3月の新日本旗揚げ戦でゴッチに敗れた猪木は、この試合でもパワーと老かいな技に苦戦するが、場外で原爆固めを浴びた直後にゴッチより一瞬早くリングに戻り、リングアウト勝ちで恩師でもあるゴッチから初勝利を収めた。この試合は「実力世界一決定戦」と銘打って行われた。

◆ストロング小林戦(74年3月19日、蔵前国技館)

NWF認定ヘビー級選手権 ストロング小林(左)と死闘を演じる猪木=1974年3月19日
NWF認定ヘビー級選手権 ストロング小林(左)と死闘を演じる猪木=1974年3月19日
NWF認定ヘビー級選手権 ストロング小林(手前)にバックドロップを決め勝利をおさめる猪木=1974年3月19日
NWF認定ヘビー級選手権 ストロング小林(手前)にバックドロップを決め勝利をおさめる猪木=1974年3月19日

国際プロレスのエースで、IWA王者だった小林との一騎打ちは「昭和の巌流島の決闘」と注目され会場は満員札止め。試合は団体のプライドをかけたエース同士の息詰まる攻防の末、猪木が原爆固めで勝利。第1回プロレス大賞の年間最高試合に選出された。

◆タイガー・ジェット・シン戦(74年6月26日、大阪府立体育会館)

77年にタイガー・ジェット・シン(下)と戦う猪木
77年にタイガー・ジェット・シン(下)と戦う猪木

猪木は6日前にシンの火炎攻撃で左目をやけどしていた。同じ3本勝負のこの試合もシンの鉄柱攻撃などで1本目は両者リングアウト。大流血した猪木は2本目に怒りが爆発。執拗(しつよう)なショルダー・アームブリーカーでシンの右腕を折った。最後は外国勢総出で試合を止め、猪木のTKO勝ちとなった。

◆ビル・ロビンソン戦(75年12月11日、蔵前国技館)

75年、ビル・ロビンソン(右)と戦う猪木
75年、ビル・ロビンソン(右)と戦う猪木

“人間風車”の異名を取ったロビンソンとのテクニシャン同士の一戦は“夢の対決”として話題になった。猪木は3本勝負の1本目は逆さ押さえ込みで奪われたが、2本目に卍(まんじ)固めを決めたところで時間切れ引き分けとなった。この試合を猪木のベストファイトに挙げる声が多い。

◆ウィリアム・ルスカ戦(76年2月6日、日本武道館)

ルスカ(右)にコブラツイストを決めるアントニオ猪木=1976年2月6日
ルスカ(右)にコブラツイストを決めるアントニオ猪木=1976年2月6日
猪木(手前)との異種格闘技戦でスリーパーホールドを決めるルスカ=1976年2月6日
猪木(手前)との異種格闘技戦でスリーパーホールドを決めるルスカ=1976年2月6日

72年ミュンヘン五輪の柔道で重量級と無差別級を制したルスカと、初の異種格闘技戦に臨んだ。ルスカの投げや絞めなどの柔道技に、猪木はエルボーなどの打撃技やコブラツイストで応戦。最後はバックドロップ3連発で金メダリストをマットに沈めた。

◆ムハマド・アリ戦(76年6月26日、日本武道館)

ムハマド・アリ(左)にキックで攻める猪木=1976年6月26日
ムハマド・アリ(左)にキックで攻める猪木=1976年6月26日
アリ(左)とアントニオ猪木との戦いは、猪木がリングに寝転んで戦うシーンが多かった(1976年6月26日)
アリ(左)とアントニオ猪木との戦いは、猪木がリングに寝転んで戦うシーンが多かった(1976年6月26日)

「世紀の一戦」と呼ばれたプロボクシング世界ヘビー級王者との異種格闘技戦。猪木は多くのプロレス技が禁じられた不利なルールの中、リングに転がって蹴りを繰り出し続けたが、最後までかみ合わず、ヤマ場もなく15回引き分けに終わった。「世紀の茶番劇」と酷評された。

日刊スポーツは「世界中に笑われた」と報じた
日刊スポーツは「世界中に笑われた」と報じた

◆アンドレ・ザ・ジャイアント戦(76年10月7日、蔵前国技館)

格闘技世界一決定戦でアンドレ・ザ・ジャイアント(左)と対戦する猪木=1976年10月7日
格闘技世界一決定戦でアンドレ・ザ・ジャイアント(左)と対戦する猪木=1976年10月7日

「格闘技世界一決定戦」と銘打って行われた一戦。開始から2メートル20、230キロの大巨人のパワーに圧倒されたが、リバース・スープレックスでアンドレを投げるなど応戦。最後はパンチ攻撃と、鉄柱への頭付きの誤爆を誘うなど、アンドレが額から大流血したため猪木のTKO勝ちとなった。

◆アクラム・ペールワン戦(76年12月12日、パキスタン・カラチナショナルスタジアム)

アリ戦で有名になった猪木は、パキスタン英雄ペールワンからの挑戦状に応じた。3回にチキンウイングアームロックを決めたが相手がギブアップしなかったため、そのまま腕を折り、最後はレフェリーストップ勝ちとなった。

◆ザ・モンスターマン戦(77年8月2日、日本武道館)

モンスターマン(右)に逆水平チョップを見舞う猪木=1977年8月2日
モンスターマン(右)に逆水平チョップを見舞う猪木=1977年8月2日

全米プロ空手の世界ヘビー級王者と3分10回ルールで対戦。多彩なパンチとキックに苦められたが、ナックルパンチで逆襲すると体ごと持ち上げて頭からリングにたたきつけ、とどめのギロチンドロップを浴びせて失神KO勝ち。猪木の異種格闘技戦の中でも屈指の名勝負と言われている。

◆ローラン・ボック戦(78年11月26日、西ドイツ・シュツットガルト)

欧州遠征でメキシコ五輪レスリング代表の肩書を持つ未知の強豪ボックに、猪木はスープレックスで投げられ続けた。突破口も見いだせずに0-3の判定負け。試合は「シュツットガルトの惨劇」と言われ、今もボックは猪木の対戦相手の中で最強という声が根強い。

◆ボブ・バックランド戦(79年11月30日、徳島市体育館)

ボブ・バックランド(右)にコブラツイストを決める猪木=1978年
ボブ・バックランド(右)にコブラツイストを決める猪木=1978年

WWFヘビー級王者バックランドへの3度目の挑戦。猪木は18分すぎにバックドロップからの体固めで勝利を収め、日本人初のWWF王座奪取に成功した。しかし、猪木は6日後の再戦がタイガー・ジェット・シンの乱入でノーコンテストになったことに納得いかず、王座を返上した。

◆ウィリー・ウィリアムス戦(80年2月27日、日本武道館)

猪木(左)にハイキックを浴びせるウィリー・ウィリアムス=1980年2月27日
猪木(左)にハイキックを浴びせるウィリー・ウィリアムス=1980年2月27日
試合後、右腕を包帯で巻くウィリー・ウィリアムス=1980年2月27日
試合後、右腕を包帯で巻くウィリー・ウィリアムス=1980年2月27日

極真空手の強豪で“熊殺し”の異名を取ったウィリアムスとの一戦は試合前から殺気立っていた。4回に猪木がウィリアムスに腕ひしぎ逆十字固めを決めた状態で両者場外に転落すると、両陣営が乱入して大混乱となり、猪木は肋骨(ろっこつ)、ウィリアムスは左ひじを負傷して、両者ドクターストップの裁定が下された。

◆スタン・ハンセン戦(80年9月25日、広島県立体育館)

トップロープに登った猪木(左)を攻めるスタン・ハンセン=1978年
トップロープに登った猪木(左)を攻めるスタン・ハンセン=1978年
スタン・ハンセン(後方)に髪の毛をつかまれる猪木=1978年
スタン・ハンセン(後方)に髪の毛をつかまれる猪木=1978年

猪木はハンセンと何度も名勝負を繰り広げてきた。猪木のNWFヘビー級王座をかけたこの試合は10分すぎ、ハンセンが必殺技のウエスタンラリアットに合わせて、ジャンプして左腕でラリアットをたたきつけた。猪木が「逆ラリアット」として語り継がれる一戦になった。

◆ハルク・ホーガン戦(83年6月2日、蔵前国技館)

猪木(手前)にアックスボンバーを見舞うハルク・ホーガン=1984年6月14日
猪木(手前)にアックスボンバーを見舞うハルク・ホーガン=1984年6月14日

第1回IWGP決勝戦で猪木はパワーで上回るホーガンに圧倒された。バックドロップで後頭部を痛打し、場外で背後からホーガンの必殺アックスボンバーを浴びて鉄柱に激突。最後はリングに入ろうとしたところを再びアックスボンバーを直撃され場外に転落。失神したまま起き上がれず、病院送りとなった。

◆ブルーザー・ブロディ戦(85年4月18日、両国国技館)

全日本から移籍したブロディとの一騎打ちに猪木は気合十分だった。延髄斬りや卍固め、バックドロップと得意技を連発。ブロディのパワフルな攻撃を真っ向から受け止めた。最後は両者リングアウトに終わったが、猪木の底力をあらためて示した一戦だった。

◆マサ斎藤戦(87年10月4日、山口県・巌流島特設リング)

マサ斎藤にヘッドロックを決める猪木=1987年10月4日
マサ斎藤にヘッドロックを決める猪木=1987年10月4日
マサ斎藤と猪木の試合はリング外が舞台となった=1987年10月4日
マサ斎藤と猪木の試合はリング外が舞台となった=1987年10月4日

観客、レフェリー不在で完全決着をかけた一戦。リング上での技の応酬から、いつしか戦いの場はリング外の芝生に移った。すっかり日も落ち、かがり火の中で戦いは続き、最後は猪木が裸絞めで斎藤を絞め落とし決着。開始のゴングから2時間5分14秒が経過していた。

◆藤波辰巳戦(88年8月8日、横浜文化体育館)

藤波辰爾に卍固めを決められる猪木=1988年8月8日
藤波辰爾に卍固めを決められる猪木=1988年8月8日
藤波辰巳(上)にアルゼンチンバックブリーカーを決める猪木=1988年8月8日
藤波辰巳(上)にアルゼンチンバックブリーカーを決める猪木=1988年8月8日
60分死闘の両者、足4の字固めのまま場外にエスケープする猪木(下)に、なおも締めあげる執念の藤波辰巳=1988年8月8日
60分死闘の両者、足4の字固めのまま場外にエスケープする猪木(下)に、なおも締めあげる執念の藤波辰巳=1988年8月8日
「猪木やめないでくれ」と悲しげな猪木コールの中、新旧交代を思わせるアントニオ猪木(上右)と藤波辰巳(同左)は感動の握手を交わした=1988年8月8日
「猪木やめないでくれ」と悲しげな猪木コールの中、新旧交代を思わせるアントニオ猪木(上右)と藤波辰巳(同左)は感動の握手を交わした=1988年8月8日

IWGPヘビー級王者の藤波に猪木が挑戦した。45歳の猪木は「負けたら引退」とも言われていた。試合は目まぐるしいグラウンドの攻防が続き、ストロングスタイルの原点のような試合に。結果は60分時間切れの引き分け。師匠超えはならなかったがこの一戦は藤波にとってもベストファイトの1つである。

◆ショータ・チョチョシビリ戦(89年4月24日、東京ドーム)

チョチョシビリ(上)に投げられ、マットにたたきつけられる猪木=1989年4月24日
チョチョシビリ(上)に投げられ、マットにたたきつけられる猪木=1989年4月24日
チョチョシビリ(後方)に投げつけられ抑え込まれる猪木=1989年4月24日
チョチョシビリ(後方)に投げつけられ抑え込まれる猪木=1989年4月24日

初の東京ドーム興行のメインで柔道五輪金メダリストと、ロープのない円形のリングで対戦。バックドロップをはじめ、猪木の技は次々と受け流され、5回に裏投げの連発を食ってKO負け。猪木が異種格闘技戦で喫した初めての黒星だった。

◆ドン・フライ戦(98年4月4日、東京ドーム)

引退試合でドン・フライ(左)に延髄斬りを浴びせる猪木=1998年4月4日
引退試合でドン・フライ(左)に延髄斬りを浴びせる猪木=1998年4月4日
ドン・フライ(右)の顔面にねらいをさだめてナックルパートを放つ猪木=1998年4月4日
ドン・フライ(右)の顔面にねらいをさだめてナックルパートを放つ猪木=1998年4月4日

猪木の引退試合。総合格闘家のフライをグラウンド技、スリーパーなどプロレス技で圧倒。さらに延髄斬り、ナックルパートで追い込み、得意のコブラツイストで捕まえると、そのままグランドコブラに移行して、最後の舞台を勝利で締めくくった。