元プロレスラーで参議院議員も務めたアントニオ猪木さんが1日午前7時40分、都内の自宅で心不全のため亡くなった。79歳だった。

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発想も行動も規格外の男だった。80年代末から90年代前半にプロレスを担当した。猪木さんはニュースの宝庫だった。取材に行くとあっと驚くスクープネタがポンポンと飛び出した。しかし、それをほとんど記事にできなかった。あまりに話が大きすぎて、慎重派の私は、いつも書くのをためらったからだ。

89年4月24日の新日本の東京ドーム初興行は、今も苦い思い出である。当時はプロレスの人気低迷期。猪木さんも全盛期を過ぎていた。会場は空席が目立ち、プロレスファンは格闘技色の強いUWFに流れていた。「東京ドームで興行を」と聞いた時は夢物語だと思い込み、裏取り取材もしなかった。

その東京ドーム初興行でソ連のアマレス軍団がデビューした。そのニュースも落とした。「交渉している」とは聞いた。確かに85年に就任したソ連のゴルバチョフ書記長が「ペレストロイカ」(改革)を推進し、東西冷戦が終結を迎えようとしていた。それでも社会主義国のアマチュア選手が、プロレスに参戦するなど想像もできなかった。

猪木さんはソ連に自ら乗り込み、国家スポーツ委員会の幹部や選手らとウオッカを飲み交わし、プロレスの魅力を訴え、信頼関係を構築したと聞いた。日米ソの3カ国対抗戦を目玉にした初の東京ドーム大会は5万3800人の大観衆で埋まった。メインに登場した猪木さんが柔道オリンピック(五輪)金メダリストのチョチョシビリにKO負けした筋書きさえ、私は想定できなかった。

その後も「イラクのフセイン大統領を招待」「北朝鮮の平壌で猪木祭」「アマゾンの奥地でジャングルファイト」など夢のような話を数多く聞いた。

彼のすごいところは夢の実現を信じて自ら行動するところだ。さすがにフセイン大統領は招待できなかったが「平壌で猪木祭」「ジャングルファイト」など、後に実現した夢が多いことに驚く。

だれもが実現不可能と思っていた、プロボクシング世界ヘビー級王者ムハマド・アリとの世紀の一戦、柔道の五輪王者ウィレム・ルスカとの異種格闘技戦を、なぜ実現させることができたのか。アントニオ猪木という人間を直接取材して、よく分かった。

彼は偉大なプロレスラーにして、夢を夢に終わらせない執念と行動力を秘めた希代の夢想家であった。【89年~93年バトル担当 首藤正徳】