元プロレスラーで参議院議員も務めたアントニオ猪木さんが1日午前7時40分、都内の自宅で心不全のため亡くなった。79歳だった。

 ◇  ◇  ◇

猪木さんの代名詞でもある「燃える闘魂」の源は、負の感情ではなかったか。16年前、45回に及ぶ猪木さんの連載を書いた。計8時間に及んだインタビュー。印象に残っているのは成功話ではない。ライバル馬場へのコンプレックスとプロレスへの劣等感。意外にもネガティブな感情だった。

昭和の時代から、ともにプロレス界を引っ張ってきた馬場とは、1960年(昭35)に力道山の日本プロレスの入門同期だった。プロ野球の巨人投手から転向し、2メートル超えの体格を誇る馬場はスター候補。対照的に移民先のブラジルでスカウトされた、まだ17歳の猪木さんは、力道山の付け人として雑用に追われる日々を送った。スパルタ指導の師匠からは「あご」とののしられ、靴べら、時にはゴルフクラブで殴られることもあった。

「馬場さんは力道山に殴られたことはなかったんじゃないかな。何でオレだけ殴られるんだと。情けなくて、悔しくて。馬場さんは当時から知名度もあったしエリート。オレは雑草で、どうなるか分からない立場だった。焦りもあったな」

そんな悶々(もんもん)とした若手時代のある日、すし店に入った時だった。ある客から「プロレスは八百長だからね」とさげすまれた。

「もう時効だから話すけど、その客を店からたたき出したよ。面と向かって“おまえ詐欺師だろう”と言われたこともある。こん畜生とね。一生懸命、命を削りながら戦って、そう思われるんだから」

相手の技を受けるなど、勝負論だけでは語れない面もあるプロレス。しかし、猪木さんはそこに劣等感を抱いた。だから“強さ”を求め「プロレスのステータスを上げる」と、アリ戦などの異種格闘技戦にも挑んだ。

「オレは対戦相手はもちろんだけど、観客とも戦ってきた。“八百長”との視線をひっくり返してやろうと。オレの1つ1つの技には、そんな社会への怒りも詰まっていたんだ」

その後も決して栄光だけではなかった。まぶしいほどのリングの業績の一方で倒産、借金、事業失敗、離婚…と想像を超える逆境に何度も追い込まれた。近年のそれは病魔。それでも、最後まで不屈の反骨心で、負の感情をエネルギーとパワーに変えてみせた。猪木さんの「燃える闘魂」。それは人生そのものだった。【05年~08年バトル担当 田口潤】