元プロレスラーで参院議員も務めたアントニオ猪木さんが1日午前7時40分、心不全のため都内の自宅で亡くなった。79歳だった。力道山にスカウトされ1960年(昭35)に日本プロレスでジャイアント馬場とともにデビュー。72年に新日本プロレスを旗揚げし、プロボクシング世界ヘビー級王者ムハマド・アリ(米国)との異種格闘技戦など数々の名勝負を繰り広げた。近年は難病「全身性アミロイドーシス」を患い、入退院を繰り返していた。

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壮絶な格闘人生の最終章は、自ら“最強の敵”と語る病魔との闘いだった。

猪木さんは19年8月に最愛の田鶴子夫人を亡くし、同9月に数万人に1人の確率で発症する「全身性アミロイドーシス」と診断された。タンパク質繊維が心臓に沈着して多臓器不全などを発症する難病。20年秋以降は腸捻転なども併発。新型コロナウイルスにも感染して「何度も死にかけた」と明かしていた。

病は少しずつ進行したが、それでも猪木さんは「病魔に打ち勝つ」とSNSで宣言。「1、2、3、ダーッ」と気合を入れる動画も配信するなど、復活への意欲を見せていた。不可能に立ち向かい、どんな逆境でも戦う姿勢を崩さない。衰えてなお、多くの人に感動と勇気を与え続けた。

現役時代は「怒り」を戦うエネルギーに替えた。60年、同日デビューしたジャイアント馬場さんは勝利したが、猪木さんは完敗。それが闘魂の発火点だった。馬場さんとのタッグ“BI砲”で人気レスラーになったが「馬場さんの女房役に徹した。次第に我慢できなくなった」と、後年本紙に本音を語っていた。

72年に旗揚げした新日本プロレスでエースに君臨すると、怒りはさらに熱を帯びた。一般紙はプロレスをいっさい掲載しなかった。他のスポーツと差別され、世間も色眼鏡で見た。「すし店で“プロレスは八百長だから”と話していた客をたたき出した。そんな世間の目とも戦ってきた」と、振り返っていた。

ストイックに強さを追求するストロングスタイルを掲げたのも、ショー的要素の強いプロレスのイメージを変えるためだった。「プロレスに市民権を」と訴えて、他の格闘技の王者たちとの異種格闘技戦に乗り出し、幾多の名勝負を繰り広げた。ボクシング世界ヘビー級王者ムハマド・アリとの一戦はプロレスの枠を超えて注目された。

怒りを心の中にマグマのようにため込み、新たな挑戦のエネルギーへと転化させた。それが“燃える闘魂”。人間の限界を超えた数々の名勝負。誰もが実現不可能と思われたアリ戦をはじめ、不可能を可能にするその圧倒的パワーに多くの日本人が心酔した。いつしか猪木ファンは「信者」と呼ばれるようになり、猪木さんはプロレスやスポーツの枠を超えて時代のカリスマへと昇華した。

全盛期を過ぎた89年には参院選に初当選。その後は「猪木祭り」を開催するなど格闘技のイベントプロデューサーとしても手腕を発揮。ソ連やイラク、北朝鮮でもプロレス興行を成功させた。10年には日本人として初めて世界最大の団体WWEの殿堂入り。その偉大な功績は世界からも高く評価されていた。

今年5月、猪木さんは青森県十和田市に建立した「アントニオ猪木家の墓」の建立式を兼ねた田鶴子夫人の納骨式に、点滴をし、車いすで参列した。墓石の正面には「道」の1文字。その手前の内側に「道」の詩が刻まれていた。

 この道を行けば

    どうなるものか

 危ぶむなかれ

    危ぶめば道はなし

 踏み出せば

    その一足が道となり

    その一足が道となる

 迷わず行けよ

    行けば分かるさ

アントニオ猪木

■「道」の詩、私の人生そのもの

「道」の詩は98年4月4日に東京ドームで開催された引退興行で、猪木さんが最後のメッセージとして観客に伝えたもの。「一休さん」で有名な一休宗純の言葉を引用したと自伝で書いているが、実際には宗教家で哲学者の清沢哲夫氏の詩であることが有力。猪木さんの著書『踏出力』(10年、創英社/三省堂書店)で、猪木さんはこの詩を「私の人生そのもの」と巻頭に掲載している。