1960年春、日本プロレスに入門した17歳の猪木さんは数日前、巨人投手から転向した22歳の馬場と初対面した。知名度もあり優遇された5歳上の先輩に対して、猪木さんは師匠力道山から毎日のように殴られた。そんなエリートと雑草はやがて宿命のライバルとなる。72年に馬場が全日本、猪木さんが新日本を設立。両団体の切磋琢磨(せっさたくま)は、現在のプロレス界の礎を築いた。76年6月、猪木さんは馬場への対抗心もあり、プロボクシング世界ヘビー級王者ムハマド・アリ(米国)と対戦。今や競技として確立した総合格闘技の源流となった。日刊スポーツでは「アントニオ猪木 闘魂伝承」を連載。第1回は馬場とアリ。

「アリ-猪木戦はUFCが主導する世界的スポーツとなった総合格闘技の開拓者です」。猪木さんの死去に、米スポーツ専門局ESPNは76年6月の異種格闘技マッチをクローズアップした。

1976年6月26日、日本武道館。猪木さんは開始からアリの強烈なパンチを避けるため、リングにあおむけになった。3分15ラウンド、ひたすらアリの足を蹴り続ける。アリはその周りを舞い続けた。15回引き分け。最後までかみ合わない試合に、世間は戸惑い、怒り、嘲笑した。当時のメディアは「世界に笑われた」「ペテン」などと徹底的に非難した。

06年夏、当時のことを聞くと、猪木さんは怒りを爆発させた。

猪木さん アリ戦は「お遊び」とか言われたよ。いまだに「あれはショーだったの」と聞く人がいる。ふざけるなっ。お遊びで、あそこまで足が腫れるか。

アリ戦の翌日、猪木さんの右足甲は3倍に腫れ上がり、剥離骨折も判明。一方のアリの左足も内出血で真っ赤に腫れ上がり、帰国後は血栓症で1カ月も入院したという。

のちに「アリキック」といわれた寝た状態からのキックには理由があった。

猪木さん 立って蹴ってはだめだとか、アリ陣営が細かいルールを要求してきた。もうルールなんて関係ねえと、パンチを食わないこと、その1点に集中したんだ。

もともとグラウンドでの攻撃が制限されるなど、レスラーに不利なルールだった。さらに試合5日前の公開練習で延髄斬りを披露すると、アリ陣営はさらなるルール変更を要求してきた。

猪木さん 延髄斬りを見せたら、アリが“冗談じゃないよ”という感じで“蹴りは一切ダメ”と細かいことを言ってきた。試合4日前に立った状態でのキックも禁止された。

絶対的に不利な条件だったが、相手陣営の主張を受け入れた。アリ戦に執着した理由の1つはプロレスの地位向上だった。当時、プロレスに対しては偏見があり、見下され「八百長」「詐欺師」などと面と向かって言われたという。新日本設立当初から掲げていた「強さ」を証明したかった。

もう1つは馬場全日本へのライバル心。同じ72年に旗揚げした猪木新日本と馬場全日本は熾烈(しれつ)なファン争奪戦を繰り広げていた。全日本は世界最高峰のプロレス団体NWAと連携して人気外国人選手を招いていたが、猪木さんにはパイプがなかった。

猪木さん アリと戦えば、猪木の知名度が上がり、新日本の人気も上がる。全日本に圧倒的な差をつけられると思った。

いまだ現役のボクシング世界ヘビー級王者を格闘技のリングに引っ張り出したのは猪木1人しかいない。 00年代から総合格闘技ブームが到来した。プロレスラー、ボクサー、柔道家、空手家が同じリングで戦う。今や総合格闘技は競技として確立した。かつて総合格闘技RIZINの榊原信行CEO(58)は「今の異種格闘技にしてもUFCにしても源流は1976年の猪木-アリ戦ですから」と話した。プロレスへの思い、馬場への対抗心から生まれた常識を超えた発想が、今の総合格闘技の源になっている。【田口潤】