元プロレスラーで参議院議員も務めたアントニオ猪木さんが1日午前7時40分、都内の自宅で心不全のため亡くなった。79歳だった。

◇  ◇  ◇

猪木さんは02年4月28日付日刊スポーツのインタビュー面「日曜日のヒーロー」に登場した。翌月に控えた新日本プロレスの30周年記念興行(東京ドーム)にちなんだ内容だったが、たった1回のインタビューで「イノキイズム」を感じさせる発言を連発した。約20年前、同インタビューで猪木さんが発した、独特の言葉をいくつかふりかえってみる。

猪木さんは89年、講演中に暴漢に短刀で首筋を切られ「あわや」となったこともあるが、そうした波乱や逆境続きの人生について聞くと「そもそも落ち込んだりしているヒマがないんだ。まず立ち上がることしか考えねえから。ダハハハ」と豪快に笑い飛ばしつつ即答。

新日本プロレスや格闘技イベント「PRIDE」のリングで発した「元気があれば、何でもできる。1、2、3、ダー!」という決めぜりふが盛り上っている件の話題になると「おれだってもう飽きたよ」と言いつつ「でも心の元気も大事だよ。よく『猪木が笑えば世界が笑う』って言われるけど。でも、ほんとに笑うんだよ。今の日本は笑いが足りない。笑いには効用があるんだ」と”笑い”理論にまで広がった。

当時59歳。あと1年で還暦だったが「普通は現役がピークで、引退が花道だよな。サラリーマンなら60歳定年で退職金をもらって、人生のゴールまで無難に生きようと考えるわけでしょ。オレの場合は逆転している」と元気満々。猪木さんがファンらに張り手をする「闘魂ビンタ」がすでに知られていたが「道を歩いているとお年寄りから若い女の子までみんな『気合入れて!』だよ。六本木あたりだと気合入れた後、いきなりギューッと抱きついてきてキスしてくる若い女性もいるんだよ。ムフフフ。若いころは全然モテなかったけどね」と笑いを交えつつ話した。

どこか日本人離れした「元気な心」の源については、中学時代にブラジルに移住し、大自然の中で過ごしたことが大きいのではと自己分析。「新幹線のグリーン車の乗客全員と握手して写真撮ったこともあるし、おれはみんなが喜んでくれることにすごく幸せを感じる。いいじゃん、人が喜んでくれれば。こざかしい計算するのはイヤなんだよね」とスケールの大きなエピソードも明かした。

猪木さんは、実現不可能ともいわれたプロボクシング世界ヘビー級チャンピオン、ムハマド・アリ戦を実現させた。そのことについては「常識外れって言われるけど、常識外れの方が正しいこといっぱいあるじゃない? アリ戦もだれが何と言おうとオレとアリしか分からない。向こうは1発でつぶしてやろうと思ってたし、こっちは1発で足を蹴り折ってやろうとか、そういうレベルの戦いがあったんです」。

そして話は「戦いはセックスと同じ。肌を合わせてみないとわからないだろ? どっちが先に『イッちゃう』かとかね(笑い)。オレと戦った選手から『猪木と試合をして、生まれてきてよかったと感じた』とよく言われる」と独自の理論に発展していった。

89年、スポーツ平和党を結成して参院選に出馬し当選した。自身が出馬した理由については「はっきり言えば、出たいから出ただけ」と一言。ただ「政治」については「日本がよくなってほしい、という思いは変わらないね。でも、政治家っていうのはウソの塊なのよ。みんな何であんなこざかしいことするの? でも、世の中には善もあるけど、悪もある。日本全体がきれいごとばかりじゃないことを見抜くことも必要かもしれない」と熱く語った。

猪木さんは00年、詩集も出版した。詩を作り始めたわけを聞くと「ブラジルにある猿の繁殖所に行ったんです。マイク・タイソンみたいな顔をした猿がいて、数分間じーっとにらめっこしたんです。向こうが手を出したから、こっちもちょろっと手を出したんです。そして互いに手をなであったのよ。後で所長が『一番どう猛な猿なんです』と。普通手を出したら大変なことになると。でもピュアな野生の気持ちになって通じ合った。その瞬間『不安だらけの人生だから、ちょっと足を止めて自然に語りかけてみた』という詩が浮かんできたんだ。それから書き始めたんだ」と、ブラジルのどう猛なサルとの“通じ合い”が発端だったとした。

これ以外にも現場では「書けないような話」、いわゆるギリギリの”オフレコ”トークもかなりしてくれるなど、「みんなが喜んでくれる」ようなことを仕かけるサービス精神も旺盛だった。【広部玄】