プロボクシングで5人の世界王者を育てた元ヨネクラジム会長の米倉健司氏が20日に亡くなったことが21日、分かった。88歳だった。

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1989年(平元)冬、米倉会長に、世界挑戦が決まった大橋の取材を申し込んだ。返事は「明日の朝5時前に、私の家に来なさい」。当日、世田谷区のご自宅に伺うと、玄関前の極寒の暗闇に立っていた。近くの合宿所にいる大橋ら選手たちのロードワークに毎朝、車で伴走していたのだ。

走る選手を横目に「情熱は伝わるんだよ」と語る笑顔を今も思い出す。選手を強くするために労をいとわなかった。最初の世界王者の柴田は自宅に住まわせて一緒に生活した。「“何でも好きな物を食べろ”とお金に糸目を付けなかったから、私も意気に感じてね」とは後年のガッツ石松の回想。いちずな情熱が、選手をやる気にさせた。

有力選手はトレーナーに任せず、自らミットを手に指導した。長年強打を受け続けて肩やひじを痛めていたが「休むと痛みがひどくなるから」と還暦を過ぎてもミットを持ち続けた。88年5月、大橋の2度目の世界挑戦直前に車のドアに手を挟み5針も縫ったが、手を血で染めながら、大橋のパンチを受け続けた。

そのミット打ちは、実にいい音が響いた。決して受け流さず、常に全身で受け止めるからだ。理由は「パンチの音で選手の調子を確認できるから」。選手が打つたびに「すごいぞ」「誰でも倒れるよ」とうれしそうに声をかけた。「練習は厳しかったけど、褒め上手で乗せるのがうまい」と、大橋も話していた。

昭和から平成にかけ、日本ボクシング界は世界王者不在の「冬の時代」を迎えた。日本選手の世界挑戦連続失敗を21で止めたのが大橋だった。「最近の日本人はハングリーじゃないから弱くなったと言われる。でもそれは違う。選手は今も昔も変わってない。情熱の問題なんですよ」。あの試合後の米倉会長の声が忘れられない。【首藤正徳】

◆米倉健司(よねくら・けんじ)1934年(昭9)5月25日、福岡・直方市生まれ。福岡高1年でボクシングを始め、53年に明大入学。56年メルボルン五輪フライ級4位。58年5月にプロデビューし、右の技巧派ボクサーとして5戦目で日本フライ級王座を獲得。60年に東洋同級王座を奪取して4度防衛。2度目の世界挑戦=世界バンタム級王者ジョー・ベセラ(メキシコ)戦も敗れた。通算戦績13勝(1KO)10敗1分け8エキシビション。引退した63年、東京・大塚にNPヨネクラジムを創設。69年に目白へ移転した。86年からは日本プロボクシング協会の会長を4年間務めた。95年にスポーツ功労者として文部大臣表彰を受けた。