20日に62歳で急逝した大相撲の第55代横綱で、日本相撲協会の理事長だった北の湖敏満氏(本名・小畑敏満)が21日、九州に別れを告げた。遺体は福岡を離れて、霊きゅう車で東京に搬送された。死去から一夜明けて、九州場所14日目は悲しみに包まれたが、土俵優先を掲げた故人の遺志を継いで黙とうなどはなし。優勝パレードなど場所後の予定も、すべて通常通りを貫くこととなった。また、12月22日午後1時から東京・両国国技館で、協会葬が開かれることも決まった。

 相撲の場は、何も変わらなかった。14日目の土俵は今まで通り。満員御礼の垂れ幕も、関係者に配布する大入り袋も自粛しなかった。親方ら協会員の左腕、腰に喪章こそ着けられたが、進行は通常。会場内で訃報を知らせるアナウンスや黙とうもなく、献花台も設置しない。それこそが、土俵を最優先に掲げた北の湖理事長の「遺志」だった。

 「何もしないでください。理事長も、そういう人ですから」。おかみさんの小畑とみ子夫人から願われていた。相撲を見終わったお客さんが笑顔で帰ること。理事長はそれだけを願っていた。協会に残された人たちは、その遺志をくんだ。

 千秋楽の協会あいさつでは訃報に触れない。優勝パレードは通常通りに行う。翌日の横綱審議委員会も開かれ、冬巡業も替えない。そして、葬儀は近親者による密葬で、親方衆も日時や場所は聞かされなかった。

 緊急理事会で理事長代行に就任した八角事業部長(元横綱北勝海)は、理事長から「遺言」を残されていた。「ブレずに頑張れ」。前夜に遺体と対面した際、涙の夫人に教えられた。だから、遺志を尊重した。「『いい相撲だった』『もう1回見に来よう』という相撲を取ることがお客さまへのお返しで、理事長への恩返しだと思う」と誓った。

 ただ、1つだけ、理事長の「願い」をかなえたかった。午後3時25分。部屋付きの山響親方(元前頭巌雄)らの手で、理事長の体が斎場から霊きゅう車に運ばれた。東京へ無言の出発。その道すがら、福岡国際センターに寄った。「相撲を最後に見せてあげたい」という、夫人の思いだった。

 会場外だけは半旗が掲げられ、太鼓をたたくやぐらの紅白の柵も白く覆われた。午後3時49分、その正面玄関に着いた。整列した親方衆らの前で、30秒間止まった。「北の湖理事長、ありがと~」の声が飛ぶ。合掌の中でゆっくりと発進した。静かに、土俵を離れた。

 12月22日の協会葬が、理事長をしのぶ唯一の機会となる。所属力士は千秋楽まで北の湖部屋の名称を変えない。後継が有力視される山響親方が当面、師匠を代行することも決まった。同じ出羽海一門で、理事長から役員待遇に抜てきされた藤島親方(元大関武双山)は「大げさでなく、命を懸けてここまでやられてきた。我々も、生半可な気持ちではできません」。さらなる土俵の充実へ。理事長の思いは、確かに受け継がれた。【今村健人】