大相撲春場所が13日に初日を迎える。本場所を前に、1月の初場所でヒヤリとした場面を振り返り、検証してみたい。【取材・構成=佐々木一郎】

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初場所2日目、東前頭2枚目の宇良が脳振とうのような症状になった。大関正代に押し出されそうになったところで、正代の左腕をたぐり、土俵下に落ちた。後頭部を強く打ち付け、衝撃音が響いた。

正代が手を貸そうとしたが、宇良は自力で土俵に戻った。しかし、足どりはフラフラ。宇良は呼び出し2人の手を借りて土俵を下り、車いすに乗って花道を引き揚げた。

当欄では以下の点について検証する。

(1)宇良を自力で土俵に戻したのはなぜか

(2)宇良の取り口は危ないのか

(3)土俵は危険な場所なのか

(4)安全対策は十分か

(5)改善策はあるのか

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(1)宇良を自力で土俵に戻したのはなぜか

宇良は土俵から落ちて後頭部を打ち、しばらく動けなかった。安全上、動かさない方がよさそうにも見えたが、宇良は自ら起き上がった。土俵に上がったが、フラフラしてまっすぐに立てなかった。映像を見る限りでは、なぜ止めなかったのか疑問に思えたが、事情を聴いて現場の様子が初めて分かった。

あの時、審判に入っていた親方の1人はこう証言した。

「藤島審判長(元大関武双山)が宇良に『動くな。そのまま、そのまま』と言ったけど、宇良が『大丈夫です』と言って土俵に上がってしまった。頑張らなくていいところなのですが、本能的に上がってしまい、審判の指示を振り切ってしまった。事情を知らない人には、審判が土俵に上げたように見えたかもしれませんが、現場はこういう事情だったのです」

映像を見直すと、確かに藤島審判長は宇良に声をかけている。また、呼び出しが駆けつけて、有事に備えていた。

審判部の別の親方は「あれだけ観客が入っている中、土俵に戻れなかったら恥ずかしいという心理も働いてしまう。幕内力士なら、自分の体は自分が分かる。幕内力士が『大丈夫です』というなら、信用するしかない」とした。

いずれにしても、宇良を無理に土俵に上げたわけでないという事情は分かった。

(2)宇良の取り口は危ないのか

宇良が頭を強打した後、八角理事長(元横綱北勝海)は「最後まであきらめないのが宇良だけど、最後に(正代に)しがみついたのは自分も相手も危ない」と指摘。さらに「ギリギリまで頑張るのが宇良の相撲だけにね」「自分だけじゃない。相手もケガにつながる。しぶといのはいいんだけどね」などと、宇良の敢闘精神をたたえつつも、ケガにつながりかねない危険性を口にした。

多くの親方衆も納得する意見だが、宇良に近いある親方は、こう反論する。

「勝負をあきらめろってことですか? 宇良はあそこからどうにかしようとしているんです。本人は(逆転)できると思ってやっている。ケガをして欲しくないという気持ちは分かりますし、そういう意見も必要ですが、考え方の違いですね」

ケガの危険性をはらむ取り口ではあるが、否定できるものではない。

(3)土俵は危険な場所なのか

あまり知られていないが、土俵下の審判が座っている辺りは、柔らかい素材のシートが敷かれていることを前置きしておく。柔らかいといっても、クッションほどではなく、歩くと足がやや沈み込む程度ではあるが、硬い床ではない。

また、土俵の高さが危険だという指摘は根強い。観客からの見やすさを優先しているためだ。土俵から落下する時にケガをするケースが多く、土俵の外側を広めにとってはどうかという意見も見聞きする。これなら見やすさと安全面を両立できるかもしれない。

ただし、実現するにはかなりの費用がかかるため、日本相撲協会で議論されるレベルに至っていない。様式美や伝統文化にかかわる問題でもある。両国国技館の場合、相撲以外のイベントでも使用できるように土俵が床下に収納される設計になっている。土俵の外側を広げれば、これができなくなる。さらに、たまり席が減る。コロナ禍で減収にある日本相撲協会にとって、力士の安全面への配慮が必要であることは分かっているものの、金がかかる施策は極めて提案しにくい状況にある。

(4)安全対策は十分か

少しずつではあるが、安全面への対策は進んでいる。昨年1月の初場所中、幕下力士が立ち合い成立前に相手とぶつかった際、脳振とうを起こした。その場所後、審判規定の一部を変更。「審判委員は、力士の立ち合いが成立する前に、相撲が取れる状態でないと認めた場合には、協議の上で当該力士を不戦敗とすることができる」とした。同年夏場所前には、首が固定できるストレッチャーが常備され、親方衆らを対象に「土俵上の応急対応処置講習会」を行った。今も本場所前は、警備の親方衆が研修会を行っているほか、本場所中でもストレッチャーの使い方を自主的に確認する親方もいる。

ただし、脳振とうが起きてしまった後のガイドラインは、日本相撲協会にはない。翌日以降の出場は、本人や師匠の判断に任せられている。今は公傷制度もない。前述した宇良に近い親方は「どうしたらいいか、難しい問題。(制度を)変えるのは、上の方の人たち。(脳振とうが)起きなければいいけど、起きた時にどうすればいいか対策はした方がいい」と漏らした。

(5)改善策はあるのか

現状では、妙案はない。力士は休場すればその分、番付が下がる。日々、頭をぶつけ合うため、力士は頭部への衝撃を常に受けている。競技の特性上、慎重な判断が必要になる。何人かの親方に意見を求めると「例えば、脳振とうになった場合、検査日など2日設けて、1勝1敗として換算してもらったらどうか。その場合、7勝6敗でも勝ち越しとみなしてもらうとか…」「ほかのスポーツなら、1週間休むこともあるんですよね? これからの課題ですね」などと歯切れは悪い。そんな中、「脳振とうのような症状の場合、『その場から動くな』と力士に事前に通達しておいてもいいかもしれません」という意見もあった。根本的な解決にはならなくとも、すぐにでも取り入れられる現実的な対策とも言える。

幸い、初場所の宇良は翌日から出場し、結果論かもしれないが勝ち越した。また、宇良の師匠である木瀬親方(元幕内肥後ノ海)はむちゃを強いるタイプでは決してないことも付記しておく。昨年初場所、弟子の十両美ノ海が13日目に脳振とうを起こし、師匠の判断により14日目から休場させた。あと1勝で勝ち越せたにもかかわらず、休むことを優先させた。当時「体が大事。出ないのも一つの勇気だ」と説明していた。

先場所の宇良の場合、現場で審判が無理を強いたわけではなく、協会としても思考が停止しているわけではない実情は分かってもらえただろうか。とはいえ、大相撲において、脳振とうへの対策はまだ不十分だ。やれることからでも手を付け、力士が思い切って相撲を取れる環境を整えてほしい。同時に、角界入りを目指す若者や、時に肩身の狭い思いをする好角家を安心させて欲しいとも思う。