1975年(昭50)5月5日に誕生した日本ポニーベースボール協会(広澤克実理事長)は今年50周年を迎えた。Protect(守る)・Our(我々の)・Nation’s(国の)・Youth(青少年)。「我々の国家の宝である青少年の成長を守ろう」を理念に、多くの指導者が野球少年を見守ってきた。今回は小平ポニーズ総監督で協会の倫理審査委員長を務める齋藤泰勝氏(75)に「PONYの思い出」を語ってもらった。

【全ては成長期の選手守るため】

小平ポニーズは今年春に50期生を迎える。1期生は侍ジャパン前監督の栗山英樹氏(62)で、東京・小平市近隣の小中学生で発足。当時は硬式球のチームが少なく、軟式球も握って試合や練習をする「二刀流」から始まった。

学童野球の指導者だった齋藤氏が監督を引き受けた1980年代の終わりごろ、千葉ジャガーズを迎えて都内の河川敷で練習試合を行った。ある打者が左打席に立つと、控え選手が右翼後方の土手の上に並び、グラブを手に待ち構えた。「(元巨人の)高橋由伸ですよ。その上をはるかに越えて民家の方まで飛ばした。その日だけで3本ホームランを打たれました」。

高橋はマウンドにも上がった。進学した桐蔭学園(神奈川)で140キロ超を記録した怪腕は中学時代も速かった。しかも当時はポニー本部の米国ルールに合わせて投本間は16・46メートル。大人より1メートル98短かったから体感速度はすさまじかった。齋藤氏は「ポニーの選手は高校進学後、直球が速く感じなかった。逆に変化球は距離が遠い分、大きく曲がるから苦手だった」と懐かしそうに笑った。

中学生の体格アップもあり、日本ポニーのグラウンドも正規の規格に変更した。1年生は学童野球の16メートルから一気に2メートル以上伸ばすことになる。そこで、1年生による夏のブロンコ大会までは17・41メートルとした。「軟式から硬式に転じる時期で、1、2メートルでも選手の負担が大きいんです。伝統的に子供たちのやりやすい形を求めてきました」。これは今でも継続しており、ポニーの理念のもと、成長期の選手を守る柔軟な対応を心がけてきた。

齋藤氏の教え子の1人、鈴木昇太投手はポニー日本代表として国際舞台の経験をきっかけに大きく成長。進学先の帝京で甲子園にも出場した。昨年、ポニー日本代表は10年ぶりにワールドシリーズで優勝。「親善試合ではなく、アジアの予選を突破して世界一を争う。これこそポニーならでは」と力を込める。海外遠征費用を協会が支援するなど、ポニーリーガーの活躍の場を広げる後押しも、実を結びだした。

ノックバットを握り、グラウンドに立つ。言葉のかけ方次第で、やる気にも傷つきもする野球少年と向き合う週末は変わらない。「いまだに修業中です」。野球少年を守りたい。ポニーの理念が染み付いている。