「おい! いいかげんしろよ! 早く降りてこいッ!」

あれは1990年(平2)7月6日の神奈川・大磯ロングビーチ。気温28度、絶好の快晴の中、怒声が響いた。

声の主は、フジテレビ系「夜のヒットスタジオ」などで知られた、プロデューサーにして総合演出の井上信吾氏(現ポニーキャニオン取締役副社長)。バブル期の名物番組だった「ドキッ! 丸ごと水着 女だらけの水泳大会」の収録現場だった。

声の先を見ると、飛び込み台のてっぺんに見たこともない、太った芸人が震えていた。アイドルや芸人が飛び込みの飛距離を競うゲームだった。その太った芸人は高所恐怖症だったのだろう、千載一遇のチャンスに勇気を振り絞って登ったはいいが、恐怖で身動きが取れなくなってしまっていた。

見守る中には、西田ひかる、田村英里子、そして実年齢より若い岡本夏生(笑い)など、売れっ子のアイドル、グラビアクイーンがいた。ちなみに、お約束の“おっぱいポロリ”要員は、AV女優の広田まみ。コンプライアンスでがんじがらめにされた今では考えられない、古き良き平成の名物番組だった。

売れっ子タレント、スタッフ、取材陣が見守る中、その太った芸人は、脂汗を流しながらブルブル震えていた。1分、2分、5分…。

「ああ、こいつ、もうダメだな」

そう思った。

その瞬間、そのデブがダイブした。が、沈んだきり浮かんでこない。スタンバイしていたレスキューが、すぐに飛び込んで助け出した。飛び込んだ瞬間に、目を回したのだろう。ダチョウ倶楽部の上島竜兵が熱湯風呂で溺れた時にやるように、口からピューッと水を吹いていた。だが、無名のタレントのアクシデントは進行を遅らせただけで“おいしい映像”とはならない。

その後は、騎馬戦のポロリやミス・フォトジェニックの田村英里子の取材で、そんな芸人がいることも忘れてしまった。それが、松ちゃんこと松村邦洋(51)を初めて意識した時だった。

だが、それからしばらくすると、松村の快進撃が始まる。日本テレビ系「お笑いウルトラクイズ」のロケ現場で、同局系「スーパージョッキー」の現場で、フジテレビ系「北野ファンクラブ」の現場で顔合わせるようになる。ビートたけしと、放送作家の高田文夫センセイのものまねのバウバウで一躍人気者になる。

92年7月に始まった日本テレビ系「進め!電波少年」のアポなしロケでは、どこにでも突撃した。93年5月には日刊スポーツ本紙で、連載「NIPPONバウバウ宣言 松村邦洋が行く」を丸1カ月、やらせてもらった。

94年1月には、東京・築地の日刊スポーツ本社もアポなし取材で突撃された。バラエティー番組で事故が起きたことを、先輩記者が「最近、アポなし取材などバラエティー番組が調子に乗りすぎている」と紙面で苦言を呈したのだが、「謝りに行きた~い!」と会社に来てしまった。

記者は事情を知らずに、会社からポケベルで呼び出されたのだが、ちょうど松村の所属する太田プロで、売り出し中だったデンジャラスをインタビュー中。「お前が仕組んだんじゃないだろうな」と疑われたのが懐かしい(笑い)。

当時は“張り込み班のエース”と言う名の雑用係で、事件が起こればポケベルが鳴って、どこへでも取材に飛んでいく。美空ひばりさんの死去、中森明菜自殺未遂、勝新太郎逮捕、若人あきら失踪、尾崎豊死去、ビートたけしバイク事故…そんな時でも「電波少年」と「スーパー-」「北野-」のスタジオ収録には、必ず顔を出すようにしていた。

当然、松村もそこにいる。高田センセイとのWバウバウがそろったCD「ピロピロ体操」のレコーディングなど懐かしい場面は多い。だが一番は、93年4月21日に東京・永田町の首相官邸で開かれた「総理と芸術文化関係者との懇親のつどい」だ。

実は、あまり公になってない話がある。番記者である記者は、当日は1時間以上早めに現場へ向かった。すると柔道着の姿の松村が、こちらへ向かってきた。一緒にいたのはT部長こと土屋敏男プロデューサー(現日テレラボシニアクリエイター)や長濱薫ディレクター(現日テレアックスオン常務)といった、いつも現場にいる人間ではなく、故・篠木偽八男チーフプロデューサー(CP)。あいさつをしようとすると、同CPが松村を強引に引っ張って、どこかへ行ってしまった。

懇親会では松村が宮沢喜一総理に「大臣のイスにすわりた~い」と直訴して大騒ぎ。セーター姿で頭にバンダナを巻きサングラスというラフな姿の、元参院議員にして元沖縄開発庁政務次官の落語家・立川談志師匠が登場して「いいかげんにしろ!」と一喝! そこでハマコーこと浜田幸一衆院議員が「座るくらいならオレがなんとかしてやるから」と許しを得て、なんとか収まった。

実は松村は、もっとすごいアポなし取材を敢行していたのだ。宮沢総理は、その9年前の大蔵大臣時代に、ホテルで暴漢に襲われたことがあった。東大卒の元大蔵官僚で英語ペラペラの国際派。マラソンの増田明美さんのそっくりさんという以外は、スポーツ経験もない。それが、30分も暴漢を相手に防戦して、その後にサングラスで傷を隠して国会答弁に立つということがあった。

これを松村、というか「電波少年」のスタッフが忘れることはない。お目通りを許されたのを機に「宮沢首相は本当に強いのか、確かめてみた~い」ということで、柔道着を着込んで“道場破り”に臨んで襲撃しようとして、あっさりと門前払いにあったのが、篠木さんと一緒にいた場面だった(笑い)。

その後は、いろいろあったり、なかったりするが、09年の東京マラソンで急性心筋梗塞で死にかけた。本人は「日刊スポーツの一面を飾れた」とネタにしているが、当時はシャレにならなかった。

で、28日に東京・四谷区民ホールで行われた30周年記念ライブ「ひとのふんどし」追加公演を見てきた。貴乃花親方、津川雅彦、カエルから始まって、最初の30分で、ものまねしたのは27人と1匹。芸を堪能して休憩に入って、まだ30分しかたってないのに驚愕(きょうがく)してしまった。その後はゲストの水道橋博士(56)が登場して、過去を振り返ったりしてペースが落ちたが、2時間弱で50人のものまねを披露した。

近頃の芸人さんは、普通に社会人としてもやって行けるようくらい優秀でルックスもいい人材が、お笑い養成所を卒業して業界に入って来る。すなわち養殖物だ。お笑い界以外では食っていけないどころか生きて生きない人材が、天然でゴロゴロして笑わせくれていた時代にテレビ界が掘り出して、現存するのが松村邦洋。

水道橋博士がいみじくも「天才と天然が同居した唯一の芸人」と言い切った。松村のそばには、昔と変わらずに甲高い声のOマネジャーがついて、あれこれ世話を焼いていた。体に気をつけて、人工心肺装置などつけずに、いつまでも天然で頑張ってほしい。松ちゃんを見て、素直にそう思った。