ジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長が9日午後4時47分、都内の病院で、解離性脳動脈瘤(りゅう)破裂による、くも膜下出血のため死去した。87歳だった。

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ジャニー喜多川氏のエンタメ魂の根底には、いつも「アメリカ」があった。

公の場で語ることがほとんど無かったジャニー氏だが、担当記者の囲み取材ではいつも冗舌で、話は戦前戦後の体験談にまで広がった。中でも熱がこもるのが米国時代の話だった。

真言宗米国別院の僧侶をしていた父親の関係で、ジャニー氏はロサンゼルスで生まれた。2歳の時に一家で日本に移住。和歌山と横浜で空襲に遭遇したが、戦後2年目の47年に再びロサンゼルスに移った。当時16歳。まさに青春時代のど真ん中をエンタメの都ロサンゼルスで過ごしたことになる。

「アメリカのエンターテイナーはファンへの向き合い方が根本的に違うんだよ」。ジャニー氏はしばしばそう語った。この頃から接していた現地のショービジネスの実感である。高校時代にはアルバイトとして名門「アニー・パイル・シアター」の劇場付き音楽監督のアシスタントを務めている。50年の美空ひばり米国公演では父の勤務先である別院が会場となった。ロサンゼルス・シティ・カレッジ(LACC)に通い始めた19歳がこの公演のステージ運営を統括。早熟ぶりもうかがえる。これが日本の芸能界進出のきっかけにもなった。

ジャニーズの所属タレントの多くが休暇を利用したり、「留学」の形でブロードウェーやラスベガスのショーを間近に見ている。それはジャニー氏の影響にほかならない。ジャニー氏は彼らに「劇場に1歩入った瞬間から仕掛けがたくさんあって、もうマジックは始まっている。席に座ってから始まる日本とは違うから」「競い合う気持ち、厳しさが全然違うから」などと学ぶべき事のヒントを与えている。

「サタデー・ジャニーズ」のインタビューで多くのタレントを取材する機会があったが、ほとんどのタレントが渡米経験によってジャニー氏の言葉を実感したことを明かした。

戦前戦後の日米間を奇跡のように移動し、思春期を米国ショービジネスのまっただ中で過ごしたジャニーさんだからこそ、これまた奇跡のような「アイドル王国」を築けたのかもしれない。【相原斎】