2000年代、テレビ番組「エンタの神様」(日本テレビ系)に「アクセルホッパー」として出演、軽快なリズムネタで一躍、売れっ子芸人となった永井佑一郎が5月末、所属した吉本興業を離れた。吉本のこと、「エンタ」のこと。じっくり聞いた。

-なぜ辞めたんですか

永井 このところ、テレビや営業、劇場の仕事もなくて、ライブ配信に力を入れてました。あまりお金に執着するタイプでもないんですが、3年前に子供が生まれて背負うものができた。最近はマッサージのアルバイトもしてました。ま、いろいろあって辞めざるを得ないなと、ここ1年ぐらいは考えてました。

-吉本とモメたんですか

永井 いいえ。吉本にいたおかげで、尊敬できる先輩にお会いできたし、劇場で場数を踏めた。お金はなくても、俺はお笑いの先頭集団にいるんだという誇りを持てた。感謝してます。

-「エンタの神様」でブレークしたのは15年前です

永井 27歳でした。桜塚やっくん、小梅太夫、ですよ。なんかと一緒に毎週のように出てました。当時の僕は、とがった笑いをやりたかったんですが、テレビでは老若男女にウケる、分かりやすいネタを求められる。やりたくなくて、収録の前日は、食べたものを吐いてしまうほどでした。「しょうがない、しょうがない」と言い聞かせてました。苦しかったですね。でも今の僕があるのは「エンタ」のおかげだし、出られなければ芸人を辞めてたかもしれない。今は良かったと思えるようになりました。

-テレビから消えて10年余、何してたんですか

永井 「エンタ」に出ていたころは、どこへ行ってもテレビのネタを求められた。新しいことに挑戦できない、成長してない、と焦ってました。テレビの仕事がなくなって時間ができて、逆にうれしかった。アルバイトしなくても食えてはいたんで、企画ライブをいろいろ立ち上げて、それなりに充実していました。そんな折、後輩が僕を「たちにい」と呼んだんです。「何、それ」を聞き返すと、後輩は「まずい」という顔をしてる。問い詰めると、後輩たちは陰で僕のことを、そう呼んでよんでたというんです。

-「たちにい」?

永井 当時、僕は吉本で最も多くライブを「立ち」上げてたんです。それで「立ち兄(にい)」。俺、そう呼ばれてるんだ、と。

-テレビから消えて「立ち上げ」に必死になってる先輩への冷笑ですか

永井 「いじり」と敬意、両方あったでしょうね。

-一発屋芸人として再ブレークする考えは?

永井 テレビに出てたころは「俺はこんなもんじゃない」「違うネタもあるのに」といつも思ってました。ある時「イロモネア」という番組で、おなじみのリズムネタで予選を勝ち抜いた。でも本戦では新ネタをかけたんです。「こんなもんじゃない俺」を見せたかった。でもスタジオは「シ~ン」です。誰も僕の新ネタなんか求めちゃいなかった。ジョイマンとか小梅太夫とか、いつもおんなじネタで、すぐに飽きられるぞ、と思ってました。でも、ここへ来て再評価されてる。続けることのすごさがようやく分かりました。

-今後の活動は?

永井 僕はリズムネタで世に出ましたから、リズムを作って売るリズムプランナーという仕事を考えています。個人の結婚式などのオリジナルでメモリアルなリズム。芸人、アイドルの出ばやし、音ネタ、何でも作ります。インターネットの動画広告「バンパー」も作りたいですね。スキップ不可の6秒広告で、訴求効果が高いと言われています。これに僕の作ったリズムを乗せる。

-自信ありますね

永井 10年以上前ですが、小室哲哉さんから、フェスで披露する新曲の振り付けを頼まれたことがあります。その時、小室さんから「君のリズムは裏打ちなんだよ」と言われました。要するに僕のリズムネタは欧米調で、古い日本の音楽にはないリズムだ、と。自分でも意識せずに使ってたんですけど、父がチェロ奏者で音楽一家に育った影響があるかもしれません。その後、小室さんはいろいろあって、企画は実現しませんでしたが…。

-芸人は辞めるんですか

永井 むしろ芸人が主です。フリーのピン芸人。吉本ではできなかったネタ、テレビでは見せられなかったネタ。自分がおもしろいと思うネタでお客さんを笑わせたい。当面はライブが中心になると思いますが、もちろんテレビにも出たい。あと生配信。「ライバー」と言います。参加者とコミュニケーションを取りながら「投げ銭」をいただくシステムです。自分の人生ですから、いろいろやりながら自分の芸で飯を食っていく。それが僕が選んだ道です。