第76回カンヌ映画祭で脚本賞を受賞した「怪物」の坂元裕二氏(56)が29日、授賞式から一夜明けて東京・羽田空港に帰国した是枝裕和監督(60)とともに会見を開いた。

坂元氏は、19歳で第1回フジテレビヤングシナリオ大賞を受賞しデビューし、91年の「東京ラブストーリー」など人気ドラマの脚本を多数、手がけたが、当初は映画の世界で活動したいと考えていた。長谷川和彦監督や黒沢清監督が立ち上げた映画製作会社「ディレクターズ・カンパニー」の脚本募集に脚本を応募するのと並行して、その映画用の脚本を、より短くしたバージョンを送ったフジテレビヤングシナリオ大賞を取り、テレビドラマの世界に入っていった。

質疑応答の中で元々、進みたかった映画の世界で、カンヌ映画祭の脚本賞という、映画の世界で至高の賞を取った喜びがあるかと質問が出た。坂元氏は「映画ファンとして映画が大好きで、自分が高校の頃は、たくさん浴びるように映画を見て、映画の世界で映画を作る仕事をしたいと10、20代は、ずっと思っていました」と振り返った。

1996年(平8)には、自らの脚本を監督して映画「ユーリ」を製作、公開した。ただ「映画を作ったんですが、その時、全く自分が監督に向いていないと分かった。辞めようと思って…それから30年もたつと、もしかしたら今なら出来るかなと思ったりしたんですが、是枝さんの仕事見て、映画監督は無理だと分かった」とも語った。

今から30年前、関係者を通じてパスを取ってもらい、カンヌ映画祭に、あくまで観光で足を運んだ。「遊びに行って、カンヌの映画を、たくさん見た。いつか、ここで自分の作品が上映できたら、どんなに幸せだろかと、遠巻きにレッドカーペットを見ながら考えていた」と当時を振り返った。今回、レッドカーペットを「怪物」の製作陣の一員として歩き、脚本賞まで取った。「賞を取ったことも、うれしかったですが上映できたこと…30年来の忘れていた願いが、よみがえってきて、ああ、ここにあったんだという気持ちになった」と感慨深げに語った。

テレビドラマの世界に難しさを感じ、96年のフジテレビ系月9ドラマ「翼をください!」の後、テレビの世界から離れ、13年に亡くなったゲームクリエイター飯野賢治さんの会社ワープでゲームの仕事をし「エネミーゼロ」「風のリグレット」の脚本も手がけた。さらに、松たか子の97年の代表曲「明日、春が来たら」などの作詞も手がけた。そして、02年の同系「恋愛偏差値」でテレビの世界に戻った。

脚本家として、主戦場であったテレビの世界と向き合うのも、苦しい時期が合った。そうした、紆余(うよ)曲折のキャリアを振り返り、今がキャリア、人生の頂点か? と聞かれると「全く、頂点とは思っておりません」と即答。「(記者の)皆さんも同じように白い紙、パソコンに向かって書かれていると思いますが、ただただ締め切りに追われ、文字を埋めていくということを毎日、1日中やることでしか、ものが出来上がらないので、そこに達成感は、なかなか生まれる仕事ではなく」と続けた。

そして「ただただ、文字を書き連ねていく…これが自分の人生。そこに達成感は手に入れられるものじゃない」と脚本家の仕事の本質を語った。そして「お客さまから、見ていました、救われましたといただいた時、コツコツやった日々を思うと、無駄ではなかったと思うくらいです」と語った。

◆坂元裕二(さかもと・ゆうじ)1967年(昭42)5月12日、大阪府生まれ。フジテレビ系の07年「わたしたちの教科書」で第26回向田邦子賞、11年「それでも、生きてゆく」で芸術選奨新人賞、13年「最高の離婚」で日本民間放送連盟賞最優秀賞。日本テレビ系の10年「Mother」で第19回橋田賞、14年「Woman」で日本民間放送連盟賞最優秀賞。TBS系の17年「カルテット」で芸術選奨文部科学大臣賞受賞。近年の作品には21年のフジテレビ系「大豆田とわ子と三人の元夫」、22年の日本テレビ系「初恋の悪魔」など。16年から東京藝術大大学院映像研究科映画表現技術脚本領域教授。