アントニオ猪木氏の参院選出馬会見で、「闘魂注入ビンタ」のまねをする石原慎太郎さん(2013年6月5日撮影)
アントニオ猪木氏の参院選出馬会見で、「闘魂注入ビンタ」のまねをする石原慎太郎さん(2013年6月5日撮影)

石原慎太郎さんが2月1日、この世を去った。東京都知事時代、2012年の衆院選で国会議員に復帰してからも取材を続けたが、石原さんといえば、「石原新党」はいつ、どんな形でできるのかという期待が常について回っていた。都知事に就任して以降、その人気とリーダーシップへの期待や待望論が先行。実態のない「都市伝説」のようだといわれたこともあった。

日刊スポーツ紙上に「石原新党」の文字が最初に登場したのは、知事就任から約2年、2001年3月だった。石原さんが政党のトップになるのはそこから10年以上たってから。知事を辞めた後、「太陽の党」の共同代表となり、すぐに橋下徹氏の日本維新の会に合流し、再び共同代表に。しかし東西のリーダーがタッグを組んだ当時の維新は、路線対立でやがて割れた。分裂後に、石原さんに近いグループで「次世代の党」が立ち上がったが、「石原新党」への期待のピークはとっくに過ぎていた。

任期途中で知事を辞め、国政復帰へ勝負をかけた石原さんだったが、当初思い描いた志を実現する環境はなかなか整わなかったように感じる。そんな流れの中、党勢拡大への思いが垣間見えることもあった。

今も印象に残るのは維新時代の2013年6月、その夏の参院選に向けてアントニオ猪木氏を擁立するとして、石原さんが猪木氏とともに記者会見した。あの石原さんと、あの猪木氏のコラボレーション。「硬派」と「破天荒」というそれぞれのキャラクターや立ち位置もあって、先の展開が読めないまま会見場に出向いた。

結果的に、2人の息は絶妙だった。猪木氏の「元気ですかー」のおたけびには目を丸くした石原さんだったが、「1、2、3、ダー」の時はいっしょにこぶしを突き上げた。お決まりの「闘魂注入ビンタ」こそ、石原さんは「ぶっ倒れる」と拒んだが、2人でスリスリほおをさわり合った。結構、意外だった。

カリスマ同志のタッグは実に、「絵力(えぢから)」があった。猪木氏が書いた「維新(以心)伝心 ジェット・シン サー(さあ)ベルを鳴らすのは誰」という、独特のだじゃれを織り込んだメッセージを、文学者でもある石原氏は気に入り、他の候補者にも事務所に貼るよう伝えていたほどだった。

日本維新の会に引っかけた「維新伝心ジェットシン」のフレーズを披露するアントニオ猪木氏(右)と、当時共同代表だった石原慎太郎さん(2013年6月5日撮影)
日本維新の会に引っかけた「維新伝心ジェットシン」のフレーズを披露するアントニオ猪木氏(右)と、当時共同代表だった石原慎太郎さん(2013年6月5日撮影)

猪木氏は比例代表で当選したものの、維新は東西で分裂。石原さんが加わった「次世代の党」に最終的に参加を決めた猪木氏はその理由を、自身の参院選出馬を決断してくれた石原さんに、義理を通すためだと明かした。当時、橋下氏ら大阪側は猪木氏の公認に強く反対した。それを、石原さんが説き伏せたのだという。石原さんは猪木氏について「おとこ気がある。頼りにしていますよ」と、話していた。そんな舞台裏もあったのだ。

石原さんは橋下氏とのコンビで、2012年衆院選で一定勢力を確保。その次の国政選挙となった参院選ではさらに勢力を伸ばしたかったはずで、猪木氏はまさに「目玉候補」だったのだ。そんな戦略をまじえたこともあったが、最終的に「石原新党」が自民党を揺るがすような大きな固まりになることはなかった。

思い返すと、新党のネーミングも、石原さんらしいこだわりが並んだ。知事時代、盟友でもあった平沼赳夫氏らが立ち上げた「たちあがれ日本」の名付け親になった。メンバーの平均年齢が70歳近く「シルバー新党」とやゆされたが、メッセージがあまりにもダイレクトだった。石原さんを世に出した「太陽の季節」を思わせる「太陽の党」も、いくつかの候補から石原さんが選んだ。ただ、最後に所属した「次世代の党」については、自身は別の名称が念頭にあったと話していた。石原さんは次世代の党結党後の2014年の衆院選で落選し、政治の表舞台から去った。

「石原新党は」「ケ・セラ・セラ(なるようになる)だ」。知事時代、都庁での定例会見ではこんな質疑応答が、石原さんと記者の間で何度も繰り返された。国政復帰を目指したのは80歳の時。緊急の知事辞任会見で、健康不安の問題を問われた石原さんは「まさに80だ。なんでおれがこんなことしないといけないんだ。若いやつ、しっかりしろよ」と毒づいた。心の底から叫びたい本心だったと、今あらためて感じる。「石原新党の行方は」などと記事を書いていた日は、もう永遠に訪れることはなくなった。【中山知子】