立憲民主党の菅直人元首相(77)が、次期衆院選に出馬しない意向を示した。野党の論客を出発点に頭角を現し、大臣や首相も務めた。最近は、ベテラン議員の1人となっていたので、時代の流れというものを感じてしまう。自民、社民、新党さきがけによる連立政権(首相は橋本龍太郎氏だった)で1996年(平8)、厚生大臣として初入閣した後、薬害エイズ問題では大臣として国の責任を初めて認めて謝罪し、反響を呼んだ。また、病原性大腸菌「O157」の食中毒が流行した際には、一時原因とされたカイワレ大根の風評被害払拭(ふっしょく)のため、カイワレ大根を報道陣の前で数パック分を試食し、安全性をアピールするパフォーマンスも記憶に残っている。

駆け出しの記者時代に取材していた当時の野党議員の中では、菅氏は断然目立つ存在の1人だった。鳩山由紀夫氏とともに代表を務めた当時の民主党で1996年の衆院選に打って出た時はちょっとしたブームとなり、菅、鳩山両氏の街頭演説には大勢の聴衆が集まったことを覚えている。

そんな菅氏だが、個人的には「浮き沈み」というワードが、国会議員人生に重なり続けたと感じる。人気を博し、期待を受けることもあったが、そうではない時期もあった。印象に残っているのは2度目の民主党代表に就いていた時代に、批判していた年金未納問題がブーメランとなって自身にも発覚し、代表の辞任に発展した。2004年5月のことだ。

菅氏はこの約2カ月後、突然、四国霊場八十八カ所を回る「お遍路」を始めて、永田町をざわつかせた。地元の理容店で頭を丸刈りにして、歩き始めた。年金未納問題や党代表辞任だけでなく、伸子夫人の病気も重なっていたと聞いた。思うところがあったのだろうし「自分を見つめ直す」のが目的だった。

徳島県にある1番札所の霊山寺をスタートした菅氏は、政治活動の合間を縫いながら何度も現地を訪れ、10年近くをかけて88番札所までたどりついたが、最初はまず約10日間かけて、24番目の最御崎寺(ほつみさきじ)までの約236キロを歩いた。その胸の内に迫りたいと思い、路程の一部ではあったが、菅氏のお遍路旅を「追っかけ取材」したことがある。

夏のお遍路だ。約20年前とはいえ、炎天下の中を歩くことのつらさは、今も当時も変わりない。海沿いの国道を黙々と歩く菅氏を見つけると、すげがさをかぶってデイパックを背負い、装束には汗と汚れがにじみ、はいていたチノパンもよれよれだった。空海が修行で悟りを開いたとされる「御厨人窟(みくろど)」では、服が汚れるのも気にせずにどかっと座り込み、座禅を組んでいた。時に戦闘的なスタイルで総理大臣と論戦していた菅氏の姿とは、あまりにもかけ離れていた。

最御崎寺にゴールした菅氏は「何かを始めるため、自分を鍛える修行だった。体重分の汗が出て、体中の細胞が入れ替わったかもしれない」と話していた。パフォーマンスのようにも感じつつ、それまで見たことのないようなすっきりした表情になっていたのが、今も強く印象に残っている。

あの「再生の旅」の後、菅氏は再び党の中枢にかかわるようになり、民主党も2009年の衆院選で自民党から政権を奪った。その政権で首相にのぼりつめた菅氏を、亀井静香氏は当時「底の底から頂点に行った男」と評した。しかし、首相時代に発生した東日本大震災や東京電力福島第1原発事故への対応は強く批判され、1年あまりで辞任に追い込まれた。菅氏はその後、しばらく中断していたお遍路を再び再開し、2013年9月、88番札所の大窪寺に到着。約1200キロを歩いて、結願(けちがん)した。

お遍路を続けた約10年の間に、底の底から頂点の座に上り詰めた菅氏だったが、民主党政権は3年あまりで幕を閉じた。1寺回るごとに煩悩が消えるといわれるお遍路だが、菅氏の政治家人生における大きな浮き沈みが、この時期にほぼ重なっていたように思う。スタート当時はまだ政権交代を目指していたころで、大きな目標もあったと思うが、ゴールするころは政権を失った後。その後も「安倍1強」の下で野党が大きく浮上する機会が生まれないまま、また新たな10年が経過し、現在に至っている。

最初のお遍路旅が終わった後の、あのすっきりとした表情はその後、ほとんど見かけることがなかったように感じる。お遍路を通じて本当に再生できたのか、思い出づくりに終わったのか。もし機会があれば、うかがってみたいと思う。【中山知子】(ニッカンスポーツ・コム/社会コラム「取材備忘録」)