平成の日本で1度だけ行われたオリンピック(五輪)は、冬の信州を明るく照らした。1998年(平10)、日本で2度目の冬季大会、長野五輪が開催。スキージャンプ団体の金メダル獲得など大盛り上がりを見せ、成功裏に幕を閉じた。その半面、膨れあがった借金が「負の遺産」としてクローズアップされ、肥大化したイベント開催の意義が問われた。新元号で行われる「TOKYO2020」を2年後に控え、「NAGANO1998」を巡るドラマを振り返る。【三須一紀】
「はぁ、はぁ、はぁ、ふなきぃ~」。ジャンプ団体、最終ジャンパー船木和喜に対し、祈るように声を絞り出した原田雅彦の言葉は、長野五輪のハイライトとなった。日本中が沸いた金メダル。この光景を夢見た信州の歩みは、戦前にさかのぼる。
1935年(昭10)、志賀高原、菅平、霧ケ峰、乗鞍などが手を挙げたが、国内選考で札幌市に敗れた。61年(昭36)にも山ノ内町、軽井沢町、白馬村、安曇村(現・松本市)がそれぞれ立候補したが、再び札幌に敗れ、72年札幌五輪が開催された。
県議会で招致が決議された85年から01年まで4期、長野市長を務め、招致委員会の会長も担った塚田佐(たすく)氏(82)は「昔から長野と松本の折り合いが悪く、候補地を一本化できなかった。98年は三度目の正直。今度は南信(長野県南)も長野市に譲っていいよとなり、一本化となった」と振り返った。
国内選考も突破し89年、塚田氏はいざ、初の海外招致活動のためフランス・アルベールビルに向かった。国際オリンピック委員会(IOC)委員からはショックな言葉が返ってきた。88年ソウル夏季五輪に敗れた名古屋が冬季に切り替えたと勘違いされ「雪は降るのか」と聞かれた。名前が似ているとはいえ「知名度ゼロ」を痛感した。
IOC委員への誘致行脚は約30カ国、ほぼ全員の約90人に及んだ。ボブスレーで五輪出場経験があるモナコ公国のアルベール皇太子(現大公=統治者)からは「会場で初滑りをさせてくれ」と頼まれ、完成した際、オープニングに招待。中には「娘が日本のテレビ局で勉強したいと言っている」と要望され、外務省に引き継いだこともあった。
IOCサマランチ会長(当時)に仕えていたスペシャルアドバイザーの子どもに招致エージェントを依頼した。「長野はお金がなかったので雇ったのは1社だけ。東京は何社も雇ったと聞いている。IOC内部の情報を仕入れるには必要なこと」。週刊誌などでサマランチ会長への過剰接待が報じられたが「彼はスポンサー獲得への意欲はすごかったが、会食には興味がなかった。酒も飲まない、会合があっても、すぐにホテルに帰ったよ」。
晴れて91年、英バーミンガムIOC総会で98年開催地に選ばれた。長野県は五輪に向けた公共投資で県債が1兆6000億円以上に膨れたが「有形無形のレガシーが残った」と胸を張る。「北陸新幹線が今、金沢まで延伸した礎をつくった。当時はフル規格の新幹線は軽井沢までで、軽井沢-長野間は在来線を利用したミニ新幹線になるはずだった。一校一国運動は高い評価を得た。何よりも県民に『やればできる』という自信がついた」。
そうは言っても、大会後も五輪ブランドにあぐらをかけるほど甘くはなかった。県は借金により財政再建団体への転落すら危ぶまれた。長野市は979億円を投じて6会場を建設。694億円を借金で賄い、今年3月になんとか完済した。
しかし、101億円をかけたボブスレー、スケルトン会場「スパイラル」の競技利用中止を2月に決定。国内競技人口が約150人しかいない中、年間2億2000万円の維持費、10年間に換算すると大規模改修を含めるため約31・2億円との試算が出た。今後は夏場の練習用のみに利用。冬の製氷を止めるだけで10年間の維持費は約1・9億円にまで削減される。
当時、五輪会場は後利用を考慮し、<1>市民サービス型、<2>集客型施設、<3>中間型施設に分類して建設。スパイラルだけは位置づけが難しく<3>に据え置き結論を先送りにしたが、その他は当初の計画通り今に至る。
例えば<1>に分類した開閉会式会場は、野球場を中心とした運動公園に再整備し、市民がスポーツを楽しめる場所に。清水宏保がスピードスケート500メートルで金メダルを獲得した「エムウエーブ」は<2>に位置づけ、16年にはアイドルグループ嵐が公演するなど、有名アーティストを呼べる収益型施設として「株式会社エムウエーブ」が運営する。
会場建設費の負担比率は「国2:県1:市町村1」の割合だった。県スポーツ課の下平嗣(ゆづる)課長(54)は「県予算1500億円の都市において五輪6施設の県支出は約10億円と決して少なくないが、五輪がなければ、一地方都市がこんな立派な施設を整備できなかった。市民にも歓迎され、負の遺産といった感じはありません」と語った。
五輪前から危機意識を持っていたのが観光産業中心の白馬村(ジャンプ会場など)だ。「五輪をやったから観光客が来るわけではない。『白馬五輪』ではないから」。当時、村役場の五輪競技課の職員で現在、白馬村観光局に勤務する篠崎孔一さん(60)はそう当時を振り返った。
大会後5年ほどは五輪効果は続き、観光客は増えた。しかし五輪前から国内のウインタースポーツ人口は減少一途。だから五輪をインバウンド強化にシフトするきっかけと位置づけた。
五輪翌年に早速、日本政府観光局と連携。06年には長野県、新潟県など自治体が中心となり「長野・新潟スノーリゾートアライアンス」を結成。年1回、オーストラリアで商談を行い、今ではほぼ民間会社同士でビジネスが成り立っている。「大手旅行会社は?」と聞くと「大手はインバウンドはまだ弱い。自分たちでやるしかない」と力強い。
海外のリゾートでは当たり前だったカード1枚で各スキー場のリフトやバスが乗れるシステムも構築。ホテルと飲食店を結ぶナイトシャトルバスも導入した。
「スキーの歴史がある欧州のアルプス、カナダのウィスラーなどで滑っている客を呼び込みたい。世界の白馬にしたい」と目標は世界基準。15年には「白馬村観光地経営計画」として「マウンテンリゾート白馬2025」を策定。官民が一体となり村全体を会社のように経営推進力の面で高める。
長野五輪について「村を挙げて気持ちがひとつになった」。一方で、「今20代の若者は長野五輪の記憶はない。五輪をやったから、それでいいということはない」と言い切る。夢と現実、その両輪をマネジメントできて初めて、五輪を開催した意義が見えてくる。