東日本大震災が発生してから9回目の3月11日を迎えた。福島第1原発事故後、自衛隊などの対応拠点となった福島県のJヴィレッジは、26日から始まる東京五輪の聖火リレーのスタート地点として福島復興のシンボルの道を歩み始める。元なでしこジャパン、J1湘南の監督を歴任した運営会社Jヴィレッジの上田栄治副社長(66)は「『頑張って』と言われる立場から『頑張れ』と言う立場になって初めて復興」と、スポーツを軸に老若男女が集う拠点作りに意欲を見せた。

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サッカーがある日常を失った、あの日から9年。Jヴィレッジの天然芝の緑は光り輝いていた。上田さんは聖火リレーのスタート地点を見詰め「すごくありがたく誇らしい気持ち。日本全国だけじゃなく海外に発信できる。放射能の風評を払拭(ふっしょく)できるチャンス」と口にした。

震災発生後、命とも言うべき天然芝ピッチに砂利が敷かれ駐車場となった。5000人収容のスタジアムと隣接する広野町サッカー場に1600室の単身寮が作られた。13年7月、日本サッカー協会(JFA)の命を受け女子委員長と兼任で副社長に就任した上田さんは、なでしこジャパン監督として親しんだピッチの変わり果てた姿に「復旧できるだろうか」と疑った。

その時から、放射能に対する風評被害と戦ってきた。サッカーが出来ることを周知するため、17年1月にJリーグの選手によるサッカー教室を企画も、一部クラブから「選手を送って大丈夫か」との声が出た。地域住民が生活し、子どもも練習している事実を説明して実現にこぎつけると、同3月には、なでしこリーグ選手のサッカー教室も開催。そうした活動が実を結び、本年度の来場者数は最盛期の年間50万人に迫った。

地域住民の心にも、変化が見える。昨年12月にJヴィレッジハーフマラソンを開催した際、走者2000人の応援を住民に依頼したところ「私たちも頑張れって言えた」と喜びの声が出た。Jヴィレッジを本拠地に05年2月に設立も、震災で休部しJ1仙台レディースに移管された東京電力マリーゼのような女子チームの復活を求める声も高い。

マリーゼは選手、スタッフが東電で働き地域に密着し、初年度のホームの平均観客動員は4000人とされた。上田さんは「震災後『頑張って』と言われてきた地元住民が『頑張れ』と応援できることが真の復興。そのためにも復活は実現したい」と語った。

好材料もある。19年4月、徒歩2分の距離にJRのJヴィレッジ駅が完成。常磐線が9年ぶりに全線で運転再開される14日以降、平日は上下線各12本が停車。うち1本は特急で東京、仙台からのアクセスが格段に良くなる。新設の全天候型人工芝練習場は4000人を収容。新型コロナウイルスの影響で中止された11日の追悼イベントでもライブが予定され、芸能イベントの誘致にも前向きだ。

上田さんは「育成年代のサッカー大会Jヴィレッジ杯を昨年、創設した。JFA主催大会も、以前のように開催できれば」と意欲を見せた。【村上幸将】

◆Jヴィレッジ 東京電力が1994年(平6)8月、福島県に構想を提案し、翌95年に同県が受け入れを表明し双葉郡楢葉町と広野町が建設地に決定。95年に工事を着工し97年7月29日に開業。東電が地域貢献として約130億円の費用を投じ、福島県に寄贈。02年にトルシエ監督率いる日本代表が練習合宿、アルゼンチン代表がキャンプを張り02年W杯日韓大会を戦った。東日本大震災発生後、福島第1原発から半径20キロの避難指示区域の境界付近にあったため、17年3月まで自衛隊、消防、東電などの対応拠点となった。その間、16年に天然芝ピッチの芝床の土壌改良、芝生の入れ替えに着手。18年7月に一部で業務再開し、19年4月に全面再開。

◆上田栄治(うえだ・えいじ)1953年(昭28)12月22日、千葉県館山市生まれ。千葉県立薬園台高、青学大を経て76年にフジタ工業サッカー部に入団。FWとして日本サッカーリーグ3回、天皇杯2回の優勝に貢献。83年に引退後、コーチに就任。94年にフジタが平塚としてJリーグに参入すると、99年に監督に就任。マカオ代表監督を経て02年になでしこジャパン監督に就任。04年に退任しJ2で低迷した湘南の監督に就任。06年に辞任しJFA女子委員長に就任。