東京オリンピック2020が始まった。コロナ禍でステイホーム観戦を余儀なくされたが、テレビやラジオのオリンピック中継からは数々の名実況が生まれている。熱戦の感動を増幅させてくれる実況に聞き入ってみるのも一興だ。夏のオリンピックの歴史と記憶に残る名実況を振り返ってみた。【笹森文彦】
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オリンピックの最初の名実況は、85年前のベルリン大会(36年)のラジオ中継で生まれた。オリンピックでラジオの生中継が本格的に行われた大会だった。前畑秀子さん(当時22)が競泳女子200メートル平泳ぎ決勝で日本人女性初の金メダルを獲得した時だった。
NHKの河西三省(さんせい)アナウンサーが最後の50メートルで「前畑がんばれ!」「がんばれ!」を、ゴール後は「前畑勝った!」「勝った!」を繰り返した。合計で40回以上に及ぶ連呼の実況は、今でも語り草である。
この時、河西アナはもう1つ名実況を残したと言われている。日本でのオリンピック放送は午前6時30分からの30分間と、午後11時からの1時間が充てられた。時差は8時間。この日は進行が遅れ、前畑さんの決勝は日本時間の午前零時直前となってしまった。河西アナは深夜に待ちわびる日本国民に向け「スイッチを切らないでください。切らないで待ってください」と呼び掛けた。このお願いは、実は放送時間を管理する関係者に向けたものだったと言われた。
テレビでオリンピック初の衛星生中継に成功したのが、64年の東京大会だった。カラー、スローモーションなど多くの新技術で映像を送った。そのテレビを通じて数々の名実況が行われた。特に閉会式で「オリンピックとは何か」を伝えた伝説の名実況が生まれた。NHK土門正夫アナウンサーである。開会式と同様に整然と行われる段取りだった。ところが途中から各国の選手が混然一体となり、肩や腕を組んで入場したのだ。みな笑顔だった。その光景を土門アナは自分の言葉で伝えた。
「そこには国境を越え、宗教を超えました美しい姿があります。このような美しい姿を、見たことはありません。まことに和気あいあい、呉越同舟。選手の手を振りますそのかなたには、7万5000人の大観衆を収容した、このスタンドがあります。まことに、和やかな風景であります」
オリンピックが平和の祭典で、世界は1つであることを、戦後復興を遂げた日本から伝えた。以降の閉会式の手本となった。土門アナは後に後輩に「心の鼓動、心の言葉で話しなさい」と語ったという。
コロナ禍で始まった2回目の東京大会。どんな名実況が生まれるか。楽しみであり、期待したい。
<アラカルト>
オリンピックはNHKアナウンサーによる名実況が数多い。夏の大会のいくつかを紹介する。
◆52年ヘルシンキ大会(フィンランド)
「どうか古橋を責めないでやってください」(飯田次男アナウンサー)
競泳男子400メートル自由形決勝で、期待の古橋広之進は8位と敗れた。敗戦で日本人が打ちひしがれていた中、非公認ながら世界記録を連発。「フジヤマのトビウオ」として戦後日本のヒーローとなった。敗戦国だったためオリンピック出場は16年ぶりで、古橋はピークを過ぎていた。飯田アナは「古橋の活躍なくして、戦後の日本の発展はあり得なかったのであります」と涙で続けた。
◆64年東京大会(日本)
「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、素晴らしい秋日和でございます」(北出清五郎アナウンサーのテレビ実況)
「開会式の最大の演出家、それは人間でもなく、音楽でもなく、それは太陽です」(鈴木文彌アナウンサーのラジオ実況)
前日の大雨がうそのような快晴の東京・国立競技場で行われた開会式の模様を、テレビとラジオそれぞれが見事な表現で伝えた。
「いよいよ金メダルポイントであります」(鈴木文彌アナウンサー)
女子バレーボール決勝の日本対ソ連で、東洋の魔女と称された日本が悲願の金メダルまであと1点となった時の、クライマックスを伝えた有名なテレビ実況。本来はマッチポイント。
◆76年モントリオール大会(カナダ)
「笑顔の優勝です。泣かない優勝です」(西田善夫アナウンサー)
女子バレーボール決勝で、新・東洋の魔女といわれた日本がソ連を破って東京大会以来12年ぶりに金メダルを獲得した。それまでほとんどの優勝者、優勝チームは泣いていた。泣かないという時代と世代の変化を、西田アナが見事に表現した実況といわれた。
◆88年ソウル大会(韓国)
「ベン・ジョンソン、筋肉の塊」(羽佐間正雄アナウンサー)
陸上男子100メートル決勝で、スタート直前のベン・ジョンソン(カナダ)を描写した。9秒79の世界新記録で圧勝したが、競技後のドーピング検査で陽性反応が出て、世界記録と金メダルは剥奪された。カール・ルイス(アメリカ)が優勝となった。“予知”していたかのような実況だった。
◆92年バルセロナ大会(スペイン)
「高野は世界の8位」(工藤三郎アナウンサー)
陸上男子400メートル決勝で、高野進は米ロサンゼルス大会(32年)の100メートル吉岡隆徳以来60年ぶりとなる短距離種目での日本人ファイナリストとなった。決勝で高野は8人中8位だった。工藤アナは3回目のオリンピックで初の決勝に進んだ31歳高野の長き努力を「世界の8位」と表現した。結果ではなく、過程をたたえる名実況だった。
◆04年アテネ大会(ギリシャ)
「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ」(刈屋富士雄アナウンサー)
体操男子団体で日本が28年ぶりの金メダルを確定させた際のフレーズ。当時のNHKオリンピックテーマソング「栄光の架橋」(ゆず)との相乗効果で、記憶に残る名実況となった。20年4月末にNHKを退局後、日刊スポーツの取材に「テレビの映像も音声も良くなっている中で、見れば分かることはもういい。その向こう側にある、その場でしか分からないことを伝えてほしい」と話した。
◆08年北京大会(中国)
「抜けてこい。抜けてこい。北島抜けてこい」(石川洋アナウンサー)
競泳男子100メートル平泳ぎ決勝で、金メダルを獲得した北島康介の後半のスパートを描写した。石川アナは200メートル平泳ぎ決勝でも、2つ目の金メダルに向けた完璧な泳ぎを「北島強いぞ。もはや無敵。大勝利」と実況した。圧勝を超えた「大勝利」が絶妙だった。
◆12年ロンドン大会(イギリス)
「探していた、見失っていた光は、ロンドンの風の中にありました」(広坂安伸アナウンサー)
女子バレーボール3位決定戦で日本が韓国に勝利し、84年の米ロサンゼルス大会以来28年ぶりのメダル(銅)を獲得した。復活までに長く苦しい時間があったことを、ポエムのような表現で感動的に伝えた。
○…オリンピックでは選手の名言も数多い。「今まで生きてきた中で、一番幸せです」(競泳岩崎恭子、92年バルセロナ大会)。「こけちゃいました」(男子マラソン谷口浩美、同)。「最高で金、最低でも金」(女子柔道谷亮子、00年オーストラリア・シドニー大会)。「すごく楽しい42キロでした」(女子マラソン高橋尚子、同)など。
「ユーキャン新語・流行語大賞」(「現代用語の基礎知識」選)では多くの名言が受賞した。その中で「初めて自分で自分を褒めたいと思います」(女子マラソン有森裕子、96年アトランタ大会)と「チョー気持ちいい」(競泳北島康介、04年アテネ大会)は年間大賞になった。
◆笹森文彦(ささもり・ふみひこ)北海道札幌市生まれ。83年入社。夏季オリンピックは、96年の米アトランタ大会に行った。競技取材ではなく、同大会の広報アドバイザーだったジャニーズTOKIOの同行取材だった。アトランタの町はオリンピック一色で、ふるさとで中学生時代に経験した72年の冬季札幌オリンピックとは違う雰囲気に感動した。当時、長瀬智也は17歳だった。血液型A。