「私が新潟明訓の監督になったのは、水島新司先生のおかげです」。新潟明訓元監督で現在は新潟医療福祉大の佐藤和也総監督(65)が17日、水島新司氏の死去に「非常に残念」とした追悼の意に加え、感謝の思いを語った。

運命を変えてもらったのは、84年。27歳の時だった。新潟明訓高の監督就任の打診が届いた。「前職についていたので非常に悩んだ。最初に頭に思い浮かんだのは『明訓=ドカベン』。本物の明訓より、漫画に出てくる神奈川の明訓のほうが有名。関東、関西の人は知らないですよね」。佐藤氏は新潟県出身で長岡高野球部で活躍したため、存在は知っていたが、全国的には無名校。「1回も甲子園に出ていないので、本当の明訓は新潟にあるんだと日本中に知らしめることが男の一生の生業(なりわい)かなと思えた。水島先生の漫画がなかったら、新潟明訓には来ていない」。漢字表記だったユニホームも漫画と同じブロック体の「MEIKUN」に変更した。

就任7年目の91年夏、小林幹英投手(元広島)らを擁し、甲子園初出場を決めた。一番の喜びは、自身が甲子園監督になったこと以上に、水島氏から電話で「本当の明訓が甲子園に出てくれてうれしい。ありがとう」の言葉だった。アルプススタンドで愛称ドカベンの元南海香川伸行氏(故人)と並んで応援してくれたことは今でも最高の達成感だ。以降も甲子園出場のたびに電話での激励が届いた。さらに直後の同年9月、週刊少年チャンピオン誌上で読み切り漫画「明訓対新潟明訓」が実現。「私を含めて全員実名で。良い男に描いてくれたことがうれしかった」と仰天プレゼントだった。初出場記念に寄贈されたドカベン単行本全巻は同校野球部監督室に保管され、甲子園出場時は宿舎に持ち込み、選手らの士気を高めている。

佐藤氏は、すでに恩返しに動き出している。「新潟市内に水島先生の思いや功績を残す何かを作る活動を始めています。本当はご存命のうちに実現したかったのですが…」。記念館なのか、水島新司スタジアムやドカベン球場なのか。明訓の固い絆には、まだまだ続きがある。【鎌田直秀】