どこに行っても鉄道に乗るだけ、観光など見向きもしない私が、わざわざ参拝のため、しかもタクシーを使ってまで訪れたお寺があります。戦国武将である前田慶次にゆかりの深い山形県米沢市の堂森善光寺。もちろん「鉄オタ」としての務めも果たしてきましたよ。(写真は2011年のもの)



2010年の春から3年間、東京勤務だった。その間の休日は、鉄道に乗るかパチンコをするかのほぼ二択(今もほとんど変わらないけど)。そして当時打ちまくったのが「花の慶次」である。人気劇画をコンテンツとした機種で、今もシリーズが続いているヒット機種だが、いかんせん「かぶきもの」(※1)の前田慶次が主人公の台である。まぁ、荒いのなんのって。大勝と大敗の繰り返し。大敗が続くとイヤになることもあるが、面白いのでそれでも打ってしまう。

あまりにも好きになりすぎて原作を読んだり、前田慶次について調べたりするようになり(ちなみに北斗の拳とエヴァのストーリーもパチンコで覚えた)、ならば慶次の供養塔があるという堂森善光寺に行かねば、となった次第。現地へ向かう公共交通機関はなさそうだったが、深く考えずに米沢駅からタクシーで直行。帰りのタクシーを1時間後に予約して寺の門(写真〈1〉)をくぐると…。


〈1〉堂森善光寺の入り口。前田慶次郎ののぼりに心が躍る
〈1〉堂森善光寺の入り口。前田慶次郎ののぼりに心が躍る

いやぁ、感激。慶次は晩年を堂森の地で過ごしたそうだが、慶次の命日にあたる毎年6月4日に供養祭が行われるという供養塔(写真〈2〉)、慶次が利用したという慶次清水(写真〈3〉)など、うーん、大当たりの時に流れる角田信朗さんの「かぶけかぶけ」の歌が聞こえてきそうだ(写真〈4〉)。ちなみに東京にいる間に、もう1度訪れてしまいました。(笑い)


〈2〉前田慶次の供養塔
〈2〉前田慶次の供養塔
〈3〉今も湧き水が出ている慶次清水
〈3〉今も湧き水が出ている慶次清水
〈4〉大ふへん者といえば慶次
〈4〉大ふへん者といえば慶次

ということでゴキゲンな時を過ごした私は翌朝、本来の姿(?)である鉄オタに戻り、目的地の峠駅(写真〈5〉)を目指して早朝の米沢駅から福島行きの奥羽本線普通に乗り込んだ。山形新幹線がビュンビュン走る奥羽本線だが(※2)、厳しい峠の県境越えとなる米沢から福島方面への普通列車は極めて少ない。今もほぼ同ダイヤで1日6往復。しかも朝と夜以外はたったの1往復。夜は寂しいので途中駅に行くなら朝だろう、だったら米沢か福島に宿泊するしかないと、この道程となった。


〈5〉早朝に峠駅に到着
〈5〉早朝に峠駅に到着

この区間はかつて大沢、峠、板谷、赤岩と4駅連続のスイッチバックがあったという、今では考えられない路線だったが、山形新幹線の運行にあたり、すべて解消された。ただスイッチバックの待ち時間を利用して販売されていた名物「峠の力餅」(写真〈6〉)は今も健在。この時も7時半すぎに店を訪れたところ、快くお店に入れてもらい、念願の力餅をいただきながら、いろいろお話を聞かせてもらった。


〈6〉峠の力餅を早朝からいただきました
〈6〉峠の力餅を早朝からいただきました

スイッチバックの遺構は今も残る(写真〈7〉〈8〉)。駅の開設が明治32年というから1899年。自動車などほぼない時代なので、鉄道というものが導入された時、先人の考えは「便利に峠を越えたい」だったのだろう。


〈7〉スイッチバック時代の遺構が残っていた
〈7〉スイッチバック時代の遺構が残っていた
〈8〉当時の構内案内図も残っていた
〈8〉当時の構内案内図も残っていた

日本各地に同様の路線が残っている。駅に戻ると電車がやって来た。標高622メートルにある、まさに峠の駅は雪に備えてスノーシェルターに覆われている(写真〈9〉〈10〉)。現在の停車時間は1分にも満たない(写真〈11〉)が、ホームでの立ち売りは続いている。私の訪問時は、ちょうど車掌さんの研修だったのか、先輩の車掌さんが「お餅屋さん大丈夫か?」と後輩に念押しする姿が、ほほえましかった。いつまでも残ってほしい光景だと思った。【高木茂久】


〈9〉雪に備えてホームはシェルターに覆われている
〈9〉雪に備えてホームはシェルターに覆われている
〈10〉峠駅の駅名標
〈10〉峠駅の駅名標
〈11〉峠駅の時刻表。1日6往復で昼間は1本しかなかった
〈11〉峠駅の時刻表。1日6往復で昼間は1本しかなかった

(※1)傾奇者とも書く。常識ではあてはまらない行動をとる人との意味。

(※2)ミニ新幹線の山形新幹線は福島から新庄まで新幹線専用の高架を外れて在来線を走るため、新幹線と普通車が同じ線路を走る。