久しぶりとなった「支線シリーズ」の第6弾は阪和線支線の通称羽衣線。大阪府堺市の鳳駅と高石市の東羽衣駅を結ぶ。結ぶといっても、途中駅のないわずか1区間で、たったの1・7キロ。JRでは指折りの短距離路線が折り返し運転を行う。しかも短距離支線にありがちな閑散運転ではなく、昼間でも15分に1本の高頻度運転を行う珍しい路線。JRではなかなか例を見ない支線はなぜできたのだろうか。(訪問は3月13日)

〈1〉阪和線支線の分岐となる鳳駅
〈1〉阪和線支線の分岐となる鳳駅

大阪と和歌山を結ぶ阪和線の快速停車駅、鳳の隅にある5番線が羽衣線専用ホームである。鳳は堺市駅より利用者の多い阪和線の重要駅(写真1~3)。本線に電車が到着する度にゾロゾロとお客さんが渡線橋を渡ってきては最新車両となる225系に乗り込んでいく。駅を出ると高架となり、左右にビッシリ並ぶ住宅やマンション、学校を眺めながら、わずか3分で「終点」の東羽衣に到着…と、普通に書けば、これだけで終わってしまう。

〈2〉支線ホームは奥にある
〈2〉支線ホームは奥にある

支線シリーズは昨年6月の和田岬線以来だが、同線のように古い車両が走っているわけではなく、昼休みがあるわけでもない。平日も週末も昼間は15分間隔で走り続ける。だが歴史を見ると、なかなか奥の深い支線だということが分かる。まず大阪から和歌山へ至る地図を見ると、ほぼ並行して走る南海本線と阪和線をつなげる路線は終点の和歌山市~和歌山しかないことに気づく。三国ヶ丘は高野線との乗り換えだし、関空方面で線路を共有するが、これは関空線。南海の貝塚から出ている水間鉄道は阪和線とクロスするが、乗換駅はない。そういう意味では特異な存在だ。

〈3〉羽衣線に使用される車両はワンマン運転
〈3〉羽衣線に使用される車両はワンマン運転

全国に鉄道網が敷かれ始めた明治時代、国にはお金がなく各地で民間の鉄道会社が建設したレールを、日露戦争後にできた鉄道国有法(※1)という法律で国有化した。山陽本線、東北本線などの幹線がこれにあたる。当時、南海は和歌山まで到達していて当然、その対象となったが、大いにもうかっていた南海が「うちは幹線ではなくローカル線」だと拒否したとか諸説あるものの、結果的には国有化されなかった。

困ったのが国側である。このままだと建設が進む紀勢本線(当時は紀勢西線)の和歌山から大阪へ国鉄で行けなくなってしまう。そんな空気を察したように将来の国有化も匂わせながら設立されたのが阪和電気鉄道。大正最後の1926年に設立されると、たった4年で和歌山まで到達。紀勢線とつながった。当初から南海に対抗する目的だったため、昭和初期にもかかわらず建設は複線電化(※2)で高規格。前回まで記していた姫新線の全通は数年後だが、あまりにも対照的だ。

ただし後発の阪和電鉄は港や主要都市を先に押さえていた南海の山側を走らざるを得ない難点があった。ここで目をつけたのは宅地開発と海水浴客である。羽衣一帯は指折りの別荘地、海水浴場で利用者も多い(車でレジャーという時代ではない)。これを奪ってしまえと支線を設けたのが羽衣線だ。鉄道にとって参拝、温泉と並び海水浴も重要なドル箱だったのだ。

〈4〉かつては国鉄からの103系が使用されていた(2017年9月)
〈4〉かつては国鉄からの103系が使用されていた(2017年9月)

私が訪れたのは4年ぶり。水色の103系に乗るためだった(写真4)。降りてみて少し驚いた。東羽衣は南海の羽衣駅と「お向かいさん」の関係だが南海の高架化に備えてベストリアンデッキで結ばれていて、おかげで私好みの字体の駅名板が隠れてしまっていた(写真5~8)。

〈5〉東羽衣駅は高架で行き止まり構造となっている
〈5〉東羽衣駅は高架で行き止まり構造となっている
〈6〉東羽衣駅と南海の羽衣駅が結ばれていた
〈6〉東羽衣駅と南海の羽衣駅が結ばれていた
〈7〉私の好きな字体で書かれた駅名板はベストリアンデッキに隠れる形となっていた
〈7〉私の好きな字体で書かれた駅名板はベストリアンデッキに隠れる形となっていた
〈8〉改札口へは広い階段が続く
〈8〉改札口へは広い階段が続く

阪和電鉄のレールが和歌山まで達する前に既に支線はでき、天王寺からの直通電車を走らせて南海に対抗した。駅名は「阪和浜寺」。駅を出て踏切を越えると海だったが、阪和電鉄利用者が海水浴場に行きにくくするため、南海が意図的にゆっくり運転をして踏切を開けさせなかったという伝説も残る。その後、戦時下に突入し、阪和電鉄は1度南海に併合され、戦時中に国鉄となった。利用者数からも十分な幹線ながら「本線」とはならず、単に阪和線と名付けられたのは、こんな経緯からだ。

私鉄に短い支線は数多くあるがJRでは2キロを切る支線は少なく、高頻度運転となるとほぼない。道路の妨げになるため70年代に早々に高架化された。踏切の向こうの海水浴場はすでになく、その踏切も間もなく消える。雨天でも濡れずに乗り換えできるようになる。学校も多く利用者が増え、盲腸線とは呼べないぐらいに発展した貴重な支線である。【高木茂久】(写真9、10)

〈9〉ベストリアンデッキには、おしゃれな文字が入っていた
〈9〉ベストリアンデッキには、おしゃれな文字が入っていた
〈10〉車内表示は当然これだけである
〈10〉車内表示は当然これだけである

※1 政府は日露戦争で鉄道の輸送力を大きな戦力だと痛感。軍事上重要となる幹線は国が持つものだということでできた法律。多くの路線が買収された。戦後、意義は有名無実となったが、法律そのものは国鉄がJRに転換されるまで残った。

〈11〉鳳の羽衣線ホームは1線のレールがなくなっている
〈11〉鳳の羽衣線ホームは1線のレールがなくなっている

※2 阪和線唯一の単線区間が羽衣線だが、当初は複線だった。戦時中に鉄供給で単線化されたが鳳駅付近の地上部分にその名残を見ることができる。(写真11)