加太駅と柘植駅の間には「加太越え」と呼ばれる峠がある。本能寺の変の際、明智光秀軍から逃れるために徳川家康がわずかな手勢とともに脱出したルートともされる峠は蒸気機関車にとっても難所で途中にはスイッチバック式の信号場も設けられるほどだった。関西本線の非電化区間の東端である亀山へ向かう。(訪問は3月5日)

 
 

柘植と加太の間は8・9キロ。170キロ以上に及ぶ関西本線の駅間としては最も長い。乗車時間は10分もある。車窓はほぼ山中である。機会があれば、柘植から加太に向かう途中、左手に見えるホームのようなものに注目してほしい。かつての中在家信号場跡。過去、何度も出たが信号場というのは単線区間でどうしても必要となる、すれ違いのための施設であることが多い。

すれ違いは基本的に駅で行うが、駅間が長い場合は別の場所に設けなければならないし、そこが利用者が見込めない山中なら駅にすることもない。信号とすれ違い設備だけがあればいい。だから名称は信号場である。他にもいろいろな理由で設置される。複線区間でも他線との分岐点で信号場が必要となる場合があり、坂に挑む列車の休憩所となることもある。坂の途中でひと休みするわけだから必然的にスイッチバック構造となる。中在家信号場はこの例。列車はひと休みしつつ、すれ違いを待っていた。(写真1)

〈1〉関に到着したキハ120。青春18きっぷ最初の週末とあってかなり混み合っていた
〈1〉関に到着したキハ120。青春18きっぷ最初の週末とあってかなり混み合っていた

もっとも列車性能の向上や長大編成列車の減少で信号場は日本各地でどんどん姿を消している。今回の区間でも貨物列車はなくなり、優等列車もなくなった。単行や2両編成しか走らないのでは休憩は不要。当信号場も名ばかりとなり、やがて施設も撤去された。私が前回、この区間を通ったのは2018年8月の青春18きっぷのシーズンで、実はよく覚えていないのだが分岐したレールなどの施設だけは残っていたようだ。ただ前述した通り今はホームのようなものが残っているだけ。

今日はしっかり見届けようとキハ120の運転台横からの展望を楽しもうと思ったのだが…青春18きっぷの最初の週末だった。事情はお察しください。車窓からの写真を撮るには撮ったが、とても掲載できるものではなかった。乗る機会があれば、勾配を味わいながら自分の目で確認していただきたい。

最初に関で降りる。立派な駅舎だ。観光協会が入っていて無人駅とは思えない。徒歩5分ほどで昔の宿場町の街並みが保存される地域に行ける。銀行までが約2キロにわたり、江戸時代にタイムトリップできる。鉄道などない古代から鈴鹿の関として重要な場所だったが、さらに重要性を増したのは近世以降。峠へ向かう、もしくは峠を越えた東海道五十三次の宿場町は伊勢街道への分岐点ともなって、大いににぎわう。当時の人々にとって「お伊勢参り」は大イベントだったのだ。(写真2~4)

〈2〉観光拠点として立派な駅舎を持つ関駅
〈2〉観光拠点として立派な駅舎を持つ関駅
〈3〉関の駅名標と関宿最寄りの案内板
〈3〉関の駅名標と関宿最寄りの案内板
〈4〉宿場町が保存されている。銀行も風景を損なわないものに
〈4〉宿場町が保存されている。銀行も風景を損なわないものに

これは明治期でも同様で、現在の関西本線(奈良まで)と草津線を敷設した関西鉄道は東海道にならって線路を通したのと同様に伊勢街道にならって伊勢を目指した。名古屋から伊勢まで近鉄は真っすぐ線路が敷かれているのに対してJR(国鉄)は亀山経由という不自由な形になっているのは、こんな経緯からである(後に現在の伊勢鉄道である国鉄伊勢線ができて形の上では解消)。(写真5、6)

〈5〉宿場町に東西を示す石標が設置されていた。奥には関駅への案内も
〈5〉宿場町に東西を示す石標が設置されていた。奥には関駅への案内も
〈6〉関の構内は広い。今は使用されない留置線も残る
〈6〉関の構内は広い。今は使用されない留置線も残る

と同時に近世以降は、こちらが関西と関東の分岐点となったとされる。よく三重県は関西か関東か、近畿か中部かという議論があるが、旧上野市を中心とした伊賀市と名張市は市民感覚からすると関西であり、近畿である。名張に住んでいた私はよく分かる。話が近鉄沿線となるが、名張から大阪まで通勤するのは普通だが、名古屋へは有料特急を利用しないと必ず乗り換えが必要となって不便である。その意味では関西本線の非電化区間は東西を分ける場所ではあるが、地域内の流動が薄い地域だともいえる。

1駅戻って加太へ。実は今回最も驚いた。渋い戦前からの駅舎があったのだが、ピカピカの新駅舎に生まれ変わっている。悲しいかな、古い駅舎が簡易駅舎に代わってしまうのが最近の流れだが、鉄道遺産として駅を利用するという亀山市の事業のようで、訪問時にはほぼ完成。もう新装なっているはずである。しばらく無人駅となっていたが、一応、きっぷ販売の窓口が設けられていた。入り口の駅名板は以前からのものと思われる。(写真7~11)

〈7〉すっかり新装されていた加太駅
〈7〉すっかり新装されていた加太駅
〈8〉駅名板は旧駅舎からのものを使用していると思われる
〈8〉駅名板は旧駅舎からのものを使用していると思われる
〈9〉駅舎内には、きっぷの販売窓口も設けられていた
〈9〉駅舎内には、きっぷの販売窓口も設けられていた
〈10〉加太の構内。ここから勾配を登っていく
〈10〉加太の構内。ここから勾配を登っていく
〈11〉加太の駅名標
〈11〉加太の駅名標

亀山へ向かう。ここからはJR東海のエリアで紀勢本線との分岐。古くからの鉄道の要衝で3面5線のホームと大正期からの駅舎そして機関区を持つ管理駅。関西本線を関からやってくると残されている給水塔が見える。駅及び駅前は工事中だった。以前はここに来るとロータリーをはさんだ向かいの建物にある喫茶店で時間をつぶしたものだが、その姿はなく新しい建物の建設中だった。(写真12~14)

〈12〉亀山からJR東海で駅名標もひらがなが先に来るJR東海方式となる
〈12〉亀山からJR東海で駅名標もひらがなが先に来るJR東海方式となる
〈13〉亀山の改札付近。自動改札機が設置されている
〈13〉亀山の改札付近。自動改札機が設置されている
〈14〉亀山駅周辺は工事中だった
〈14〉亀山駅周辺は工事中だった

関西鉄道はその後、別の会社が既に敷設していた現在の片町線、関西本線(奈良以西)を買収。名古屋~大阪を結んだことによって国鉄と利用客の激しい争奪戦を起こす。ただし明治末期の鉄道国有法によって国鉄となり、戦後の同区間の争いは国鉄VS近鉄となる。関西本線はこの戦いから徐々に身を引く形となり、JR移管後は名古屋近郊、大阪近郊の通勤通学輸送が主眼で亀山~加茂は電化も複線化もされないまま、どちらかというと鉄道遺産的に余生を過ごすものだと思われてきた。

ところが近年、この区間がにわかに脚光を浴びている。「中央新幹線」いわゆる「リニア」である。名古屋~大阪間はまだルートも途中駅も未確定で工事前の段階だが、新大阪までの間で亀山、奈良に駅が設置されることが有力になっている。奈良については奈良県内のどこに駅を設けるか、京都の存在はどうするなど議論も多く、東海道新幹線もリニアもJR東海の運営で争いにはならないが、大阪と名古屋を最短で結んだルートについては国有化から100年以上たち生き返ったといえる。

もっとも大阪~名古屋の所要時間5時間切りを目標とした明治期の鉄道マンには同区間の所要時間が20分というのは、あり得ないというより意味不明のことかもしれない。亀山市のどこに駅が設置されるかも未定だが、もし亀山駅に併設されるなら、リニアからの乗り換えが非電化のワンマン1両編成となるのかどうか-個人的には注目している。【高木茂久】(写真15)

〈15〉亀山駅には手書きの受験生応援ボードがあった
〈15〉亀山駅には手書きの受験生応援ボードがあった