野球の国から

ルースをたどって 沢村栄治との伝説の一戦の地まで

<鉄道と野球~東海道線を行く~熱海駅>

平塚をたち、小田原、さらに早川を過ぎると、東海道線は海沿いを走りだす。左側がパッと開け、青色がまぶしい。あと少しで静岡県。関東ともお別れだ。


86年前、同じ旅路をたどった野球選手がいた。ベーブ・ルースだ。1934年(昭9)の日米野球で来日。1カ月をかけ日本中を転戦したが、11月18日に横浜で第9戦の後、20日は静岡・草薙で第10戦。19日は試合をしていない。熱海で途中下車して温泉を楽しんでいたりして。ゆかりの旅館が残っていたら面白い。

妄想はあえなくついえた。読売新聞の記事を見つけた。米国チームは19日夜、帝国ホテルで在東京米人協会主催のパーティーに招待されていた。約200人の盛会で、読売新聞社の正力松太郎社長や大隈侯も出席とある。大隈重信の養子、常信だろう。この約1カ月後に結成される大日本東京野球倶楽部(後の巨人)初代会長を務めた人物だ。

翌日に東京から列車で静岡入り。当日移動だった。ルースは降りなかったが、やはり熱海で降りよう。丹那トンネルを訪れたい。

丹那トンネル熱海側の東口
丹那トンネル熱海側の東口

熱海と次の函南(かんなみ)を結ぶ全長7804メートルが、伊豆半島の根元を貫く。18年(大7)に建設が始まったが、計画の7年を大きく超える16年の工期を費やした。度重なる事故で、67人もの犠牲者を出した末の開通だった。熱海側、東口の真上に殉職碑が置かれ、67人の名が刻まれている。東海道線という日本の大動脈発展には、ある野球人が貢献していた。

トンネルができるまで、東海道線は現在の御殿場線を経由し、内陸を遠回りしていた。開通で40~50分ほど走行時間が短縮された。鉄道省で工事を担当した1人に、平山復二郎がいる。旧制一高(東大教養学部などの前身)野球部で名三塁手として鳴らし、09年(明42)に主将を務めた。新工法により難工事を貫徹し「ゴロをトンネルしなかった平山が大トンネルをやった」とたたえられたという。

丹那トンネル東口の上に設置されている「殉職碑」
丹那トンネル東口の上に設置されている「殉職碑」

熱海に戻り、再び乗車した。現在の東海道線は5分もかからずトンネルを通過した。ルースも丹那トンネルのおかげで快適に移動できた…と思ったら勘違い。開通は34年12月1日。わずか11日早かったため、御殿場線経由の遠回りだったはずだ。ともあれ、列車は静岡駅へ入った。当時の読売新聞によると、午前11時58分着の「つばめ」。第2回で紹介した、スワローズの由来となった超特急だ。

一行は静岡に到着後、駅前の大東館ホテルで一息つき、草薙球場へ向かった。沢村栄治との伝説の一戦が待っていた。この大東館ホテル、どこにあったのだろう。静岡市旅館組合が88年に発行した「組合誌」によると、日興会館があった場所に31年(昭6)建築。鉄筋3階建てで、ビリヤード施設も備えた洋式ホテルだったという。米国チームにおあつらえ向きだったようだ。

日興会館の場所には今、葵タワーが立っている。駅北口の紺屋町に10年にできた。市内で最も高い、地上125メートル。往時をしのぼうと上ったら、展望台はなかった。残念…そのまま近くの居酒屋へ。黒おでんを食べながら「ルースは食べたかな」なんて考えた。野球を巡る東海道線の旅、私はここまで。バトンタッチだ。(つづく)

【古川真弥】

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