杉浦正則には生涯忘れることはないであろう夜がある。92年8月4日。バルセロナ五輪の準決勝で台湾に敗れた直後の一夜だ。
打線は後に阪神入りする郭李建夫を打ち崩せなかった。24歳だった杉浦は同点の場面から救援登板して2被弾した。試合後は涙が止まらなくなった。選手村に戻った後も、1歩も部屋から出られずにいた。
「次に金メダルか銀メダルかの戦いをできるか、3位決定戦になるか。一番大事な準決勝で自分が打たれて負けてしまった…」
責任を背負い込んでいた夜、しばらくするとひっきりなしにドアをノックする音が響いた。1人、また1人…。選手全員が同じ言葉をかけに来てくれた。
「明日がこのチームのラストゲーム。勝って終わろうよ」
翌5日、杉浦は3位決定戦の米国戦で再びリリーフ登板し、4回2/3を1安打無失点。完璧な内容で銅メダル獲得に大きく貢献した。
「仲間の言葉でまた奮起できた。これがチームスポーツの良さなんですよね」
「ミスターアマ野球」は自身初の五輪となったバルセロナの最後の2日間で、完全に五輪野球の魅力に取りつかれたのかもしれない。
日本代表は88年ソウル五輪で銀メダルを獲得。野球が公開競技から正式種目になった92年は金メダルへの機運が高まっていた。誰もが悲願に向けて身を粉にしたバルセロナでの経験は、後々の「野球観」に大きな影響を及ぼした。
宿舎生活には「22時だったか23時だったか」と門限があった。破った選手は外出禁止を科された。「チームワークについては、うるさく言われましたね」。一丸になるため、何度も何度もミーティングを重ねた。
「バルセロナのチームには、みんなが自分の意見を言い合える雰囲気がありました。時にはケンカになることもありましたけどね」
当時、バルセロナメンバーは「小粒」と表現されることもあった。後にプロで大活躍する三菱自動車京都の伊藤智仁、青学大の小久保裕紀がいたとはいえ、ソウル五輪の野茂英雄、古田敦也、野村謙二郎らと比べられた。だからこそ、個の能力を1つに結集する作業に皆が尽力した。
杉浦は今、思う。
「どうしても代表チームは寄せ集めになる。各チームの4番、エースが集まってくる。すると、最初に起こるのは『遠慮』なんです。それぞれが言いたいことを遠慮してしまう。でも、遠慮はプレーのどこかに出てしまう。だから僕はぶつかるぐらいの方がいいと思うんです。自分をさらけ出せるぐらいのチームになれると強いので」
このバルセロナでの経験則が4年後、アトランタ五輪直前の「緊急ミーティング」につながっていく。【佐井陽介】(敬称略、所属チーム、肩書は当時、つづく)
◆杉浦正則(すぎうら・まさのり)1968年(昭43)5月23日、和歌山県生まれ。橋本高から同大、日本生命に進み、92、97年の都市対抗Vで、ともに橋戸賞(MVP)受賞。3大会連続五輪出場で、通算1位の5勝。現在は日本生命首都圏法人営業第四部・法人部長。