あれはアトランタオリンピック(五輪)開幕直前、96年7月中旬のことだ。28歳になっていた杉浦正則は意を決して、日本代表主将だったNTT東京の中村大伸に願い出た。

「選手だけのミーティングを開いてください」

チーム唯一のバルセロナ五輪経験者として「嫌われ者」になる覚悟を決めた。

記者の質問に答える杉浦氏(撮影・鈴木正人)※撮影時のみマスクを外しています
記者の質問に答える杉浦氏(撮影・鈴木正人)※撮影時のみマスクを外しています

日本代表はジョージア州メイコンで事前合宿を張っていた。起床、散歩、体操、朝食。決められたスケジュールの中で寝坊してくる選手がいた。「それはちょっと違うんじゃないか、と思って」。緊急ミーティングで厳しく訴えかけた。

「このオリンピックに野球人生を懸けている選手もいる。そういう場所で集団生活もできなくて、チームスポーツとして成り立つのか。出たくても出られなかった、一緒に戦ってきた仲間に失礼じゃないのか」

4年前、バルセロナで学んだ。「遠慮するぐらいなら、ぶつかった方がいい」。金メダルを目指す上で後悔だけはしたくなかった。

アトランタのメンバーは「アマ最強」との呼び声が高かった。23歳の三菱自動車岡崎・谷佳知、22歳の新日鉄君津・松中信彦、21歳の青学大・井口忠仁(現・資仁)と東洋大・今岡誠(現・真訪)、19歳の日本生命・福留孝介…。後に10人がプロ入りする布陣は誰の目にも強力だった。ただ、杉浦は選手間の温度差が不安でならなかった。

「それぞれ思いが少しずつ違うのは仕方がない。ベテランの中には『最初で最後の五輪』という思いがある人もいる。一方で、若手はプロに行く道筋の中に五輪がある。でも、勝たなくても自分のアピールさえできればいいという選手がいると五輪は勝てない」

96年アトランタ五輪メンバー
96年アトランタ五輪メンバー

舞台は野球の本場、米国。報道陣の数も4年前とは比べものにならないほど多く、浮足立っている選手もいた。そんな雰囲気に風穴をあける狙いもあった。

緊急ミーティングは杉浦の後、先輩の怒鳴り声でさらに空気が張り詰めた。

「勝ちたい気持ちがないヤツは帰れ。たとえ10人になっても試合はする」

効果があったのかどうかは今も分からない。ただ、杉浦の目には「少しずつ変わるきっかけになった」と映った。チームは予選リーグで初戦を取った後に3連敗。決勝リーグ進出へ崖っぷちに立たされた時、エースはこれまでにない「大きな変化」を感じたという。

5戦目のニカラグア戦から3連勝で勝ち上がった日本は、予選リーグで大敗していた米国との準決勝に大勝。決勝でキューバとの乱打戦に敗れたものの、堂々の銀メダルを手にした。

「最初はプロに行きたい選手のアピールの場みたいになって、全然つながりがなかった。そんなチームが最終的に、勝ちたいというところでつながれた」

苦心して深めた絆に、杉浦は誇りを持っている。【佐井陽介】(敬称略、所属チーム、肩書は当時、つづく)

◆杉浦正則(すぎうら・まさのり)1968年(昭43)5月23日、和歌山県生まれ。橋本高から同大、日本生命に進み、92、97年の都市対抗Vで、ともに橋戸賞(MVP)受賞。3大会連続五輪出場で、通算1位の5勝。現在は日本生命首都圏法人営業第四部・法人部長。