年月を経て、かつて取材した話の輪郭がはっきりしてくることがある。当時は価値が分からなかったことが、後に取材を重ねたことで理解できる瞬間がある。「ああ、そうだったのか~時を経て知るあのプレー、あの言葉」と題し、記者が取材ノートをひもといていく。

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東京・渋谷のエクセルホテル東急5階にある喫茶店、「エスタシオン カフェ」はパソコンを開いたビジネスマンや女性たちで混み合っていた。

午後3時過ぎ。かつて大フィーバーを巻き起こした甲子園のアイドルが現れても、気がつく人はいない。夏の甲子園が100回大会を迎える前年の17年夏。選手の高校時代に迫る長期連載「野球の国から 追憶シリーズ」の取材で元ヤクルトの荒木大輔氏と待ち合わせた。

80年8月、甲子園で力投する早実時代の荒木氏
80年8月、甲子園で力投する早実時代の荒木氏

甲子園は5季連続で出場し、通算12勝5敗。早実のグラウンド、遠征先、甲子園…、周囲はいつも女性ファンでいっぱいだった。「大輔」の名は、新生児ランキングで8年連続1位、松坂大輔氏の名前の由来にもなった…など、数多くの逸話が残っている。

「女の子向けの雑誌も全盛だった。セブンティーンにも担当記者と担当カメラマンがいたから」

そんなフィーバーの原点は「世界が変わった」と振り返る80年夏。細身の1年生が、130キロ台中盤の直球とカーブのコンビネーションで甲子園準優勝を果たした、と思っていた。

「今はバックドアとか騒いでいるけど、オレは投げていたから。どの辺から投げたらストライクゾーンに入ってくるとか、インサイドも、どの辺からなら決まるとか、感覚があった。1年夏の甲子園の時に、何となく試合中に分かった」

純粋な直球ではなく、シュートして沈む、今でいう「ツーシーム」を投げていた。

「本当に強いバッターには、そういうことしないで一生懸命投げた。クリーンアップには使わない。下位打線は、真ん中辺りにシュート回転のボールを投げておけば、少し沈むから、バッターがボールの上っ面をたたいてゴロになる」

試合ごとに注目を増したイケメンの1年生。マスコミが連日取り上げたことで、勝ち気な3年生の心中は穏やかではなかった。

「相手がすごく意識してくれた。1年生相手にね、高校生ぐらいなら、余計。このやろうみたいな感じで力む。そしたらちょうどいい感じで沈んで。力みで、ゴロになった」

23年、ザ・プレミアム・モルツ球団対ドリーム・ヒーローズ ドリーム・ヒーローズの荒木氏
23年、ザ・プレミアム・モルツ球団対ドリーム・ヒーローズ ドリーム・ヒーローズの荒木氏

今では多くの投手が操る「ツーシーム」。日刊スポーツ紙面に初めて登場したのは98年2月16日、当時ヤンキースに在籍していた伊良部秀輝氏が、キャンプ初日に新球「ツーシーマー・ファーストボール」を披露したと伝えられている。01年ごろには「ツーシーム」の活字が頻繁に登場するようになり、同年にエンゼルス所属だった長谷川滋利氏は「簡単に言えば、汚い回転のボールを投げること」と解説。「ブルペンで投げている時、汚い回転でちょっと変な変化をした方が褒められるんです。日本の今までの経験からいくとまったく逆の発想。日本だと変な回転だぞ! ってキャッチャーからしかられましたから」と話していた。

80年に投げていた荒木氏の「ツーシーム」は、一般的になる20年以上前のできごとになる。球界に隠れた使い手はいたかもしれないが、大きく報じられることはなかった特殊なボールを、1年生右腕が操った。

決勝で惜しくも敗れたが、初めての甲子園で4完封、44回1/3連続無失点を記録した。ヤクルト担当時代、神宮のクラブハウスと球場をつなぐ地下道、通称「荒木トンネル」を当時投手コーチだった本人と何度も一緒に歩いたが、聞いたことがなかった「大ちゃんフィーバー」の原点だった。

ただ、美談には続きがある。2年生になると体は大きくなり、1年時より直球のスピードが上がった。きれいなフォーシームも決まるようになった。

「だんだん自分のイメージ通りのボールに近づいてきたから。打たれるよ、やっぱり。130キロ台後半でしょ。真っすぐで回転が良かったら、バッターからしたら打ちやすいボールになっていた」

ようやく手に入れた教科書通りの直球では、1年夏の成績を超えることはできなかった。5季連続の甲子園出場を果たしながら、早実の日本一は斎藤佑樹投手を擁した06年夏まで待つことになる。【前田祐輔】(この項おわり)