末次が夏の甲子園に出場した3年前、73年夏に柳川商(福岡)は怪物と呼ばれた江川卓擁する作新学院(栃木)を苦しめた高校として一躍有名になった。末次がいた時代も強かった。

3年の春先から練習試合も含めて「36連勝」と当時の記録をマークした。原辰徳擁する東海大相模(神奈川)との招待試合でも勝利。エースは久保康生。野手にも逸材がいた。立花義家だった。久保は今季まで阪神の2軍投手チーフコーチを務め、立花は現ソフトバンク打撃コーチだ。

36連勝を止められたのは、「サッシー」と呼ばれたエース、酒井圭一を擁する海星だった。長崎に乗り込んでの練習試合に1-2で敗れた。その前年の秋に、九州大会初戦で豊見城(沖縄)赤嶺賢勇投手の前に負けている。そして76年夏の甲子園3回戦でPL学園(大阪)に黒星。末次らが最上級生となったチームでは3敗しかしていない。

しかし、どれだけ実力があっても、当時の監督、福田精一は厳しかった。特別扱いしない方針のもと、末次も厳しく育てられた。ある練習試合で4打席4三振。その試合の直後から2週間、練習させてもらえなかったこともあった。

末次 4三振というけど、そのうち2つは3バント失敗なんです。4番だからといって特別扱いはしなかった。バント練習なんて、ほとんどしたことがなかったし、そりゃ失敗しますよね。あまりバントをしない監督さんだったけど、ホントに大事な時にはスクイズもあると。その2つともスクイズのサインだったんですけど。

その2週間、練習中は常に監督である福田の隣で正座だった。4番もバント失敗は許されないと身をもって覚えさせられた。

末次 大牟田延命球場での練習試合で勝っても内容が悪ければ、柳川高校まで走らされた。

その球場から学校まで、距離は約19キロ。末次とバッテリーを組み、寮でも同部屋だった久保が当時を振り返る。

久保 練習はつらかったが、みんなよく練習していた。末次も同じ。8打席連続安打で報われたし、私も甲子園に行けたし、こうやってプロに行けて、いまだにユニホームを着ていられる。

女房役との息はどうだったのか。

久保 「超バッテリー」という言葉があるならそんな感じ。もう、あうんの呼吸で投球していた。

末次との決まり事は「ベースの端とバッターボックスの内側ラインとの間に投げることだった。ストライクともボールともとれる微妙な制球を磨いた」(久保)という。日が落ちても問題ない。久保は「捕手が投球が見えなくても構えたミットに入るほどだった」と投げ続け、制球を磨いた。

久保は末次に負けじと、最後の夏は三重戦で3安打無四球完封、PL学園戦では1点は失ったが、けん制悪送球がからんだ末に、止めたバットに当たってのポテンヒットでの1点。2試合で自責点0。末次が全打席安打なら、久保は防御率0で最後の夏を終えた。

社会人の松下電器に内定していた立花は、秋のドラフトでクラウンライターから1位指名を受ける。そして、ヤマハ発動機に内定していた久保は近鉄からの1位指名。2人はプロ入りした。しかし、日本ハムから3位指名を受けた末次は、別の道を選ぶのだった。(敬称略=つづく)【浦田由紀夫】

(2017年10月11日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)