プレーバック日刊スポーツ! 過去の5月19日付紙面を振り返ります。1994年の1面(東京版)は巨人槙原投手の完全試合でした。
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<巨人6-0広島>◇1994年5月18日◇福岡ドーム
「ピッチャーやってて良かった!」。巨人槙原寛己投手(30)がプロ野球史上15人目の感激パーフェクトを達成した。18日、福岡ドームで行われた対広島7回戦で、打者27人を102球で完ぺきに抑え込んだ。完全試合は、1978年(昭53)8月31日に阪急(現オリックス)の今井雄太郎がロッテ相手に達成して以来16年ぶり。巨人では、50年にプロ野球1号を記録した藤本(現中上)英雄以来、実に44年ぶり二人目。打球が速く達成が難しいといわれる人工芝球場では初の快挙だ。巨人通算7000試合は、何とも華やかなメモリアルゲームとなった。 午後8時14分。それまで、だれもが半信半疑で見守っていた歴史的瞬間が、現実になった。4万8000人の博多っ子の視線の先は、マウンド上の槙原ただひとりに注がれていた。
御船に投げた102球目。迷いはなかった。フィニッシュは145キロの直球だった。力ない、一塁へのファウルフライ。慎重な足取りの落合が、かたずをのんで見守る一塁側ベンチ横でガッチリとキャッチした。
史上15人目の完全試合。マウンド上の槙原は両手を高々と掲げて空中を飛んだ。「なんか夢の中にいるみたいでした。投手をやった人はだれでもあこがれる。ピッチャーをやっていて良かった」。サード長嶋一茂が、おどるように抱きつく。村田真が、緒方が、川相が……。出迎えた長嶋監督も飛びついて、身長差で7センチ高い槙原を抱え上げた。「監督が抱きしめてくれて、ビックリしました。本当は僕が抱きしめたかったけど、タイミングを外されちゃってね」。この期に及んで遠慮するのも、槙原らしかった。
大記録への意識は、早かった。「いつも出るはず」の、四球が3回を終わっても出ていない。序盤の大量援護で試合はワンサイド。そのうち、一球ごとにスタンドのどよめきが大きくなっていくのに気づいた。「僕自身もボルテージを上げていこう」。5回、金本の投ゴロの送球は一塁へショートバウンド。「手首が硬くなったんです。みっともなかったですね」。6回終了ごろからは、ベンチ内でひそかにカウントダウンがスタート。槙原本人もその配慮を感じていたが、「あ・うん」の仲の村田真のカツだけは耳に残っていた。「男ならやってみろ。やるといったらやるんだ」。
槙原にとっては、ゲンのいい球場でもあった。昨年11月の日米野球、今年3月のオープン戦の2試合で、通算5回を無安打無失点。「前からここで投げたかった。広いし勇気を与えてくれるんです」。そして、自分の胸に言い聞かせた。「真っすぐが走っているうちは大丈夫」。雨でノーゲームとなった15日の横浜戦では148キロをマークした。中2日の先発も好調を持続した。この日最速147キロの直球をだれよりも信頼していたのは、槙原自身だった。
これまでの野球人生では、愛知・大府高時代、参考記録のノーヒットノーランが最高。プロ13年目で大記録をつかんだが、ここまではハデな栄光と懸け離れた人生だった。1985年(昭60)7月14日の阪神戦で左コ関節を骨折。89年7月29日の広島戦では、右ヒザ内側半月板を損傷した。いずれも、全治3カ月の重傷だった。それでも、槙原は野球人生をかけて、自らの体にメスを入れる決断を下した。
ケガを乗り越えてカムバックしても、タイトルは83年の新人王だけ。エースの称号は、常に後輩の斎藤、桑田らに譲ってきた。毎年のようにトレード候補に名前が挙がり、昨年オフにはFAの権利を行使。長嶋監督の熱意にほだされて、巨人残留を決めた。
その巨人の球団史上7000試合目の公式戦で、ビッグなビッグな1勝。「巨人で優勝したいんです。優勝して監督を胴上げするのが、恩返しになるでしょうから」。長嶋監督から贈られた17本のバラで残留を決めた槙原は、思いっきりキザで、そして男らしかった。
◆槙原がプロ野球史上15人目の完全試合を達成した。完全試合は1978年(昭53)8月31日に今井雄太郎(阪急)が対ロッテ戦で記録して以来16年ぶりで、セ・リーグでは68年9月14日の外木場義郎(広島)以来、26年ぶり8人目。また、巨人の投手としては完全試合第1号の藤本英雄が50年の対西日本戦でマークして以来、44年ぶり二人目の快挙となった。槙原は今年の8月で31歳を迎えるが、過去完全試合を行った14投手のうち13人が20代で記録。30代で達成したのは50年藤本(32歳1カ月)の一人だけで、30歳9カ月の槙原はこれに次ぐ年長記録だ。なお、ノーヒットノーランは92年湯舟(阪神)以来で、通算70度目(59人目)となった。
※記録と表記は当時のもの



