取手リトルシニア(茨城=北関東地区代表)が多摩川ボーイズ(東京=ボーイズリーグ代表)を3-1で破り、4年ぶり2度目の中学硬式野球日本一に輝いた。

取手は大会期間中に関東地方を襲った大雨や雷の影響で、2回戦は早朝の試合が遠方の球場に変更して夕方開始のナイターになり、準々決勝4試合のうち唯一翌日に順延された。最も「悪条件」での戦いだったが、勝負強さを発揮した。

▼決勝

取手リトルシニア3-1多摩川ボーイズ

【取手は東京ドームホテルから出陣】

取手は1回裏、1番笠原優貴(3年)が中前打で出塁。2番藤田碧巴(3年)はバントを2回失敗後、石崎学監督の「引っ張れ」の指示を受けて強振。大きく弧を描く打球は右中間を突破する三塁打で先制した。藤田は「思ったより打球が伸びました。(東京ドームの外野を突破して)気持ちよかったです」。

続く主砲・三ツ井蓮主将(3年)が右前打で2点目を挙げた。

先発左腕の寺田塁(3年)は試合前まで今大会3試合に先発して9回12失点と期待を裏切ってきた。ところが、この日は直球が低めに決まり、80球の制限を迎えた5回2死まで3安打1四球。救援の笠原が適時打を浴び1失点が記録されたが、石崎監督を「200点、300点のでき。中学で最高の投球でした。今までと今日と、どっちの寺田が本当の姿なんでしょう」と興奮させる内容だった。

最終7回は笠原が2者を内野ゴロで仕留めると、最後は三ツ井主将が三塁後方のファウルフライをがっちりつかみ、優勝を決めた。

寺田は「最後はみんなで笑って終わりたかった。絶対に勝ちたかった」の気持ちを、決勝のマウンドで形にした。5回裏には1死満塁で打席に立つと、内角球に腰を引かず、押し出しの死球で貴重な追加点を奪った。

試合後の整列で、石崎監督は左隣の三ツ井主将の肩に手をやった。2年生のころからレギュラー遊撃手で起用してきた大器には、いつも厳しい声をかけ、激励してきた。この試合は2点目の適時打に加え、守備でも6回表1死一、二塁の場面で、三遊間の深いゴロを三塁に送球してアウトにする好判断など、守備でもチームを支えた。

三ツ井主将は「つらいことも多かった。あとはジャイアンツカップしかなくなって、みんなが1つになって優勝することができた。取手シニアに入って、本当によかったです」。

直前のリトルシニア日本選手権2回戦で敗退したのは自らのミスがきっかけだった。石崎監督からは「おまえのミスで負けたんだ」と叱られた。「はっきり言ってもらえたのがよかったです。だから、この大会でみんなに恩返ししたかった」。

取手は前日の休養日、地元で軽めの練習を済ませると、ベンチ外の3年生も含めた約40人で、東京ドームホテルに移動した。

東京ドームでは前日までSEKAI NO OWARIのライブが行われており、部屋数の確保が難しかったが、ぎりぎりで全員が宿泊。初体験の高級ホテルからの出陣は、一丸ムードを高めるとともに、選手たちへの思い出づくりの一環だった。

選手たちの恩返しが全員で勝ち取ったジャイアンツカップだった。

【多摩川のスイッチ投手・原にドーム騒然】

創部3年目で、初優勝を目の前にした多摩川は今大会猛打を振るった打線が沈黙した。

プロ野球巨人が母体で、チームの代表は元選手の大森剛氏で、内野手として活躍した片岡保幸監督が率いた。ユニホームも応戦席の応援もジャイアンツスタイルで、記念大会のジャイアンツカップ獲得が期待されたが届かなかった。

それでも才能豊かな選手たちが東京ドームを騒然とさせた。

大会を通じて好投を続けていた2番手の原悠翔(3年)は5回裏から左投げで登板。130キロ台中盤の速球で攻めたが、制球を乱し押し出し死球で1点を失った。

すると、右打者を迎えたところで、グラブを右投げ用に変えて、本来の右投げにスイッチ。140キロ台の速球などで2者を打ち取り後続を断った。6回裏には右投げを続け、最速145キロを計測。長いプロ野球の歴史でも南海、阪神の近田豊年(1988~91年)しかいないスイッチピッチャーが、中学硬式野球日本一を争う東京ドームで実現した。