日本映画誕生・発展期の聖地といわれる京都。今月4日に心不全で亡くなった俳優の津川雅彦さんは「日本映画の父」と呼ばれる映画監督・牧野省三氏の孫として、芸能界の名門牧野家に生まれました。京都国際映画祭の名誉実行委員長を務める中島貞夫監督(84)は、津川さんが亡くなる直前まで「芸能一家の代表」として京都の映画復興を気にかけていたことを明かしました。

 嵐電(京福電鉄)北野線の等持院駅から徒歩10分。等持院には津川さんの祖父、牧野省三氏の銅像があり、台座には「日本映画の父」と記載されています。1921年(大10)、牧野氏は「牧野教育映画製作所」を設立し、等持院に撮影所をつくりました。旅芸人だった尾上松之助を見いだし、日本初の映画スターに。片岡千恵蔵といった時代劇スターも、牧野氏のもとで修業しました。監督、脚本家ら制作関係者の育成にも力を入れました。

 津川さんは晩年、「京都国際映画祭」に携わり、同映画祭で日本映画の発展に貢献した制作関係者に贈られる「牧野省三賞」の選考委員を務めました。同賞は牧野省三氏の功績をしのび設けられ、14年からは京都国際映画祭の中で、発表しています。津川さんは「芸能一家の代表」として同賞のプレゼンターとして登壇してきました。

 津川さんの父は俳優沢村国太郎、母は女優マキノ智子、兄は俳優長門裕之、芸能一家に生まれました。制作関係者も多く、叔父は映画監督のマキノ雅弘氏でした。

 中島監督は言います。

 「お兄ちゃん(俳優の長門さん)が亡くなってからは、牧野家を代表して映画界で発言できるのは津川さんだけになった。その立場の責任をすごく感じていた。京都国際映画祭にも全面的に協力してもらった」

 体調が思わしくない年でも「パーティーは出席しないけど、授与式だけは出席したい」。その意志は強かったといいます。

 今年6月、京都市内で映画やテレビ番組の小道具を一手に担う太秦の「高津商会」の創業100周年記念展が行われました。記念イベント初日に中島監督は津川さんと対談する予定でした。「津川さんのおじいちゃん、省三さんが立ち上げにかかわった小道具屋さん。初日に少し2人で話そうかと企画した」。ただ津川さんの体調がよくなかった。「ものすごく責任感が強い人で、約束したことは必ず守る。こちらから『来なくていいよ』と強く言わないと、体調が悪くても来てしまう」。中島監督が何度も“説得”して、対談をキャンセルしたそうです。

 俳優だけではなく、「マキノ雅彦」の監督名でメガホンを取った津川さんは、「牧野省三賞」の選考委員を務めていました。中島監督によると、今年の受賞者はすでに決まっています。選考委員で何度か話し合い、最後は津川さんが推薦した人で意見がまとまりました。

 映画制作関係者のこともよくみていたといいます。「プロデューサー、脚本家、細かいところまでしっかりみていた。映画に対する広い視野を持っていた」。中島監督はしみじみと言います。

 「牧野家というものを最後まで背負ってくれた」

【松浦隆司】(ニッカンスポーツ・コム/コラム「ナニワのベテラン走る~ミナミヘキタヘ」)