サッカー日本代表は明日19日、ワールドカップ(W杯)初戦で強敵コロンビアと激突する。コロンビアでは、かつてプロサッカー選手だった日系2世が両チームの健闘を祈っている。同国リーグ創成期に首都ボゴタの強豪サンタフェとミジョナリオスでMFとしてプレーした道工薫(どく・かおる)さん(94)。1951年にはコロンビア代表に招集された「南米のサムライ」の人生に迫り、W杯への思いを聞いた。【取材=福岡吉央通信員】
コロンビア北部のカリブ海に面する常夏の街バランキージャで道工さんがサッカーを本格的に始めたのは10歳の頃。当時はプロへの憧れはなく、コロンビア海軍に入隊し、サッカーを続けていた。だが、24歳だった48年に勤務地がボゴタに変わり、同時にプロリーグが始まったことで運命が変わった。
道工さんはサンタフェでプレーしていた友人に誘われて入団テストを受け、合格。海軍から許可をもらって練習や試合に参加する二足のわらじ生活が始まった。システムは2-3-5。道工さんは今の左サイドバックにあたる左MFとしてレギュラーの座をつかんだ。長髪を束ねる白いハチマキがトレードマーク。相手の攻撃を何度もヘディングではね返し、サンタフェを初代王者へ導いた。
「当時のボールは今と違って、継ぎ目は革が出っ張っていて、ヘディングをすると頭が痛かったんです。汗もかくからハチマキは最適でした。日本人の血が流れていることも常に忘れることはなかったですね」
ライバルのミジョナリオスには、その後Rマドリードで活躍するアルゼンチン人FWディステファノもいた。道工さんは「ドリブルで攻めてきた彼のシュートをゴールラインぎりぎりで防いだことがあったんです。悔しがっていた彼が近寄ってきたので、てっきり敬意を表してプレーを褒められるのかと思ったら、怒鳴り込みにきて、ののしられましたよ」と、笑いながら当時を懐かしむ。翌年からは主将を務め、読者投票による地元誌選定のベストイレブンに毎年のように名を連ねた。
51年にはコロンビア代表に選ばれた。デビュー戦はボゴタで行われたパラグアイとの親善試合。試合は2-4で敗れたが、背番号6を付けた道工さんは「代表のユニホームを着てプレーできたことは本当にうれしかった。感動して胸が熱くなった」と振り返る。翌52年から朝鮮戦争に参加し、コロンビアを離れたこともあり、その後の代表招集はなかったが、母国を背負って大観衆の前でプレーしたことはいい思い出だ。
94年の人生で、サッカーと海軍に情熱を注ぎ、日本人の血が流れていることへの誇りを持ち続けてきた道工さん。今では11人の子供、15人の孫、5人のひ孫に恵まれ、幸せな余生を過ごす。そしてW杯という大舞台での日本とコロンビアの試合を心待ちにしている。
「試合は引き分けがいいですね。本当は2倍楽しみたいから別のグループがよかったけど。コロンビアは監督が選手の士気を高め、うまくチームをまとめている。日本も海外組が増え、レベルが上がってきている。どちらも決勝トーナメントまで勝ち上がって欲しい。コロンビアは4強、日本は8強まで行けるんじゃないかな」
両国への思いを胸に互いの健闘を祈っている。
◆道工薫(どく・かおる=本名ホセ・カオル・ドク・ベルメホ)1924年5月16日、コロンビア・バランキージャ近郊で5人兄弟の次男として生まれる。父は広島県出身の日本人、母はコロンビア人。48~52年サンタフェでプレー。その後、父の祖国が見られるかもしれないと思い朝鮮戦争に志願参加。現地で休暇を取り、日本で父の親族と対面した。帰国後、55年にサンタフェに復帰。57~59年はミジョナリオスでプレーし、35歳で引退。その後は指導者となった。90年に勲5等瑞宝章を受章。現在、バランキージャにある日本コロンビア友好協会の名誉会長を務める。