愛娘に会いたい 震災8年目 あらゆる骨拾った日々

東日本大震災の発生から今日11日、丸8年を迎えた。警察庁は8日、被害状況を更新し、死者1万5897人、行方不明者2533人と発表した。大津波により全校児童108人中70人が死亡、4人が行方不明、教職員10人が死亡した宮城県石巻市立大川小学校の惨事は今も、遺族や社会に大きな爪痕を残す。鈴木義明さん(57)実穂さん(50)夫妻は、行方不明になっている小4だった長女巴那(はな)さん(当時9)を探し続けている。小6だった長男堅登(けんと)くん(当時12)も亡くし、子どもがいなくなった夫婦に、時の流れは重くのしかかっている。

  ◇  ◇  ◇

街角のどこかに、子どもたちの影を捜してしまう。3月は毎年つらい。近所にある高校の卒業式。胸章を着けた女子生徒が肩を組んで門出を祝っていた。生きていれば巴那さんも今年、高校卒業。「見たくなかったけど、車の窓から見えてしまった」。実穂さんはその日、涙がしくしくと、止まらなかった。

年月がたてば悲しみは薄れると思っていたが、逆だった。年々、子どもたちと会いたい気持ちが強くなる。「夢であの子たちに会うと、匂いがするんです」。実穂さんにとって、その夢だけが、2人を感じられる瞬間。しかし、良い時間ばかりではない。夫婦でテレビを見ていても昼夜問わず突然、涙があふれ出る。義明さんは「何でもないようにしてるけど、フラッシュバックするんだ」。

8年前のこの日。人生が一変した。大津波が大川小に到達したのは地震発生から約50分後。にもかかわらず74人もの児童が死亡・行方不明となった。

義明さんが大川小にたどり着けたのは2日後の13日午前5時30分ごろ。「同時多発テロ9・11の映像を見ているようだった。現実とは思えなかった」。足元には子どもたちの遺体。緑豊かな住宅地が広がっていたことなど想像できないほど、黒と茶色の世界が広がっていた。「もうだめだ」。約11キロ離れた避難所に戻り実穂さんに、そう伝えた。

翌14日、捜索を開始。水を含んだ顔が膨らみ目、鼻、口、耳から血を流す遺体が多かった。義明さんは「こまかい砂や土が毛穴という毛穴に刺さり、肌が紙ヤスリのような状態になっていて…」と、悲惨だった遺体状況を振り返った。

「怖いなんて気持ちは、もうなかった」と実穂さん。遺体が上がるたび、親たちは顔を近づけて確認し合った。「この子、何年生のあの子かもしれね」「みんな見てけろ」と声を掛け合った。駐在の警察官が名前を書いたガムテープを、それぞれの遺体に貼った。

震災から8日後、堅登くんが見つかった。激流による損傷で顔が分かりづらい子が多い中「ひと目で分かった」と実穂さん。体には細かい砂や木材の破片が無数に刺さっていた。「頑張ったね」と声をかけた。

なかなか見つからない火葬場。日に日に、体は紫色になった。発見当初はなかった打撲のあざが全身にわたって見えるようになった。息子が耐えた痛みを思うと、言葉にならなかった。

しかし、巴那さんには一向に会えなかった。遺体が見つかった遺族は次の段階である「検証」へ向かっていた。焦りが募った。

あらゆる骨を拾った。実穂さんは「骨が買い物袋いっぱいになるの。これは鳥、牛、豚。拾ってるうちに分かるようになった」。義明さんも「鳥の骨と人の指の骨が似ているから捨てられないんだ」と言った。娘の骨かもしれない-。わらをもつかむ思いで鑑定したが、見つからなかった。

5月、実穂さんは捜索に専念するため医療事務の仕事を辞めた。建設会社に勤務していた義明さんは震災後1カ月間、休職を許された。しかし、会社に復帰した頃、同僚の反応が変わっていた。「仮設住宅っていいな。家賃、かからないんだろ」。娘の捜索のため、沿岸部でたくさんの塩水をかぶり、故障しかけた車を買い替えただけなのに「いいな、車も買えて」と、心ない言葉を受け続けた。

2年間耐えたが、限界が来て転職した。義明さんはむなしそうに「子どもを亡くしただけじゃないんだよね。被災者は。地元の人の方が冷たかった」。

今もなお、愛娘の捜索を続ける鈴木夫妻。今年2月、石巻市教委に対し、捜索活動の中で地中探査レーダーの導入を要望した。義明さんは「硫黄島での遺骨探査にも使っていると聞く。これまで有効的な具体策を何も打ち出してこなかった市教委に、本気度を見せてもらいたい」と訴えた。

まさか平成が終わろうとしている今の今までかかるとは。実穂さんは「『津波が来たら泳ぎ切る』と言うぐらい強気な子だった。ハワイ沖ぐらいまで泳いでいったんでねえか」。義明さんは「宇宙人に助けられてどこかの星で暮らしてるのかな…」。そう思うしかなかった。

震災5日後、大川小の屋上で見つかった巴那さんのランドセル。教科書、体操着、給食袋、リコーダー、鍵盤ハーモニカ、クーピー、絵の具…。ランドセルは当時のまま残され、中の教科書は今もまだ、津波の湿り気が残っている。

2922日が経過しても、大川小遺族にあるのは悲劇の爪痕だけ。実穂さんが昨年、控訴審で述べた巴那さんの代弁が、今もどこからか聞こえてきそうだ。

「私も見つけてもらったら抱っこしてもらいたい。ずっとそう思ってきたけど、もうその願いはかなわないみたい。だって、もうすっかり骨だけになっちゃったんだもの。でも、こんな姿になっても、お父さんとお母さんの所に帰りたいな」。【三須一紀】

◆鈴木夫妻を含め大川小の児童23人の遺族は14年3月、石巻市と宮城県を提訴した。学校に隣接する裏山に避難させず、50分もの間、校庭にとどまらせていた学校側の対応に過失があったと主張。仙台地裁、同高裁ともに約14億円の賠償を命じ、控訴審では1審で認めなかった学校側の防災体制の不備を認定し、今後の学校防災において重要な判決が下された。市と県は高裁判決を不服とし最高裁へ上告した。

実穂さんは「平成が終わる前に、今後の学校防災に好機となる結果を出してほしい」と願う。義明さんも「日本のどこかで大きな震災がまた起きるかもしれない。早く判決を出さないと、また同じことが起きてしまう」と危惧する。そして「大川小の『事故』を教科書に載せてほしい。文科省は、この悲劇を繰り返さないために検討してほしい」と訴えた。

◆堅登くんのランドセルにはアイドルグループ嵐の本が入っていた。妹と一緒に読むため、小学校の図書室でなんとかして借りた人気の本。妹思いの兄だった。8年たった今も、その本はランドセルに入ったままだ。

その他の写真

  • 11年3月、津波で崩壊した大川小
  • 巴那さんと堅登くんのランドセルを手にする鈴木実穂さん。右は堅登くんのランドセルに入っていた嵐の本(撮影・三須一紀)
  • 15年に建てた家に造った巴那さんと堅登くんの子ども部屋を見つめる鈴木夫妻(撮影・三須一紀)