64年東京五輪を目指した幻のチームがあった。ハンドボール男子日本代表。36年ベルリン大会以来の復活が決まり、60年には世界2位のルーマニア代表を招いて強化試合もしたが、61年6月の国際オリンピック委員会(IOC)総会で除外された。新たに採用されたバレーボール、柔道の陰に消えた五輪の夢。芝浦工大で活躍し、大崎電気に進んで出場を目指していた田口侑義氏(80)は「人生が変わった」と振り返る。


世界選手権初出場のドイツで地元雑誌に見入る日本代表の田口侑義氏(中央)。左は佐藤宏輔氏、右は主将の竹野泰昭氏
世界選手権初出場のドイツで地元雑誌に見入る日本代表の田口侑義氏(中央)。左は佐藤宏輔氏、右は主将の竹野泰昭氏

東京五輪開催まで4年の60年6月、日本ハンドボール界は盛り上がっていた。前年の世界選手権2位のルーマニアが来日し、全国各地で10試合。日本代表は結成されなかったが、強化の真剣勝負だった。最後に対戦した全芝浦工大は16-17と惜敗したものの、国内無敵の実力を見せつけた。

田口 相手は高く、強かったけれど、スピードと機動力では負けなかった。ルーマニアから「芝浦は欧州でも十分通用する」と言われ、自信になりました。

小石川競技場は約5000人のファンで埋まった。残り2分で決勝点を奪われたが、互角の戦いぶりは翌日の新聞各紙でも詳報された。「4年後に期待」「東京五輪行けるぞ」…。

田口 五輪に出るんだ、という気持ちでしたね。大学4年生だったので、就職は(実業団の強豪)大崎電気に決めました。大崎から五輪に出るつもりでした。

64年東京大会開催が決まったのは59年5月、国際オリンピック委員会(IOC)の五輪憲章にある全21競技の実施を約束した。60年ローマ大会から増えた3競技の中に、36年ベルリン大会以来実施されなかったハンドボールがあった。

田口 ハンドボールを始めたのは群馬・桐生工高のとき。当時は11人制。168センチと体は大きくなかったけれど、野球の経験が生きたのと小回りがきいた。芝浦工大に入ってから五輪が決まり、うれしかった。

東京からの要望で柔道が加わり22競技になると「肥大化」が問題化。世界的普及度が低いハンドボールの実施が不透明になった。それでも、61年3月の世界室内選手権(7人制)に初めて日本代表が送られた。

田口 実施されるかどうか不安はあったけれど、選手は信じてプレーするしかない。11人制か7人制かも分からなかったけれど。ドイツでの大会後は1カ月、欧州を回って練習試合。自腹だから、きつかった。

欧州は室内競技として7人制移行が進んでいた。しかし、人数の議論の前に、ハンドボールは東京五輪から消える。同年6月、アテネでのIOC総会でIOC委員の投票でアーチェリーとともに除外が決定。実施20競技が正式決定した。

田口 大きなショックでした。ただ、僕らの力ではどうしようもない。本番では同情した会社(大崎電気)がサッカーのチケットを用意してくれた。日本のアルゼンチン戦とチェコスロバキア戦。ハンドボールが行われたかもしれない駒沢競技場で観戦しました。

五輪の夢が破れた田口氏は引退後、69年に福島に誕生したばかりのムネカタの監督に就任。7人しかいなかったチームを日本リーグの強豪に育てた。02年のチーム解散後も指導を続け、今も中学生にハンドボールの楽しさを伝えている。

田口 東京五輪があったら? 人生は変わっていたかもしれない。でも、それも人生(笑い)。次の東京五輪はある。東京の息子(写真家・有史氏)の家に泊まり、全試合見る。それが、今一番の楽しみなんです。

64年に新たに採用されたバレーボールは「東洋の魔女」で大ブームになった。その陰でハンドボーラーは泣いたが、それも「東京五輪」だった。結局、五輪は72年大会から。「東京であれば、私の人生も日本のハンドも変わった」。田口氏は静かに言った。【荻島弘一】


幻の東京五輪代表の思い出を語る田口侑義氏(撮影・荻島弘一)
幻の東京五輪代表の思い出を語る田口侑義氏(撮影・荻島弘一)

◆田口侑義(たぐち・ゆきよし)1938年(昭13)9月28日、群馬県山田郡大間々町(現みどり市)生まれ。群馬・桐生工高でハンドボールを始め、芝浦工大から61年4月に実業団の強豪、大崎電気入りした。69年から福島のムネカタ監督を34年間務め、同県の競技振興に貢献する。幸子夫人(旧姓川崎、73)も元日本代表。現役時代は168センチ、64キロ。


■「22」から縮小 投票で最下位

60年8月に柔道の実施が決まると、22にふくれた競技数が「肥大化」につながるという声があがった。同年12月、東京大会組織委員会は日本オリンピック委員会(JOC)と協議してIOCへの縮小案を発表。ハンドボール、近代5種、カヌー、アーチェリーの4競技を外して18競技とした。

しかし、これには「開催都市に決定権はない」とIOCが反発。IOC内部でも18~22競技で意見が分かれ、決定は61年6月のIOC総会(アテネ)での投票に委ねられた。出席したIOC委員44人が22競技のうち「外すべき競技に×」をし、28票のハンドボールは26票のアーチェリーとともに実施見送りが決まった。

◆11人制と7人制 1950年代まではドイツで誕生した屋外競技の11人制が主流。サッカーと同じピッチで同じゴール。スパイクでプレーし、雨天でも行われた。ゴール中央から13メートルのゴールエリアにはGK以外入れず、35メートルライン内に入れるのは攻守とも6人まで。ゴール前の攻防は60年代から主流になった屋内競技の7人制と同じで6対6(GKを除く)だった。


■「韓国の壁」「中東の笛」に予選敗退続く

日本陸上連盟ハンドボール委員会が、日本ハンドボール協会として独立したのは38年1月。競技が実施される40年東京五輪を見据えたものだった。しかし、わずか半年後に戦局悪化で返上。64年東京五輪の「幻の代表」を経て、五輪競技として初の実施は72年ミュンヘン大会だった。日本も7人制に完全移行していた。

72年大会は16チーム中11位だったが、アイスランドに勝つなど健闘。野田清のサイドからアクロバチックに放つ「ムササビ・シュート」は、世界を驚かせた。88年ソウル五輪まで連続出場を果たし「世界のガモ」蒲生晴明らが活躍した。

92年大会からは韓国の壁が厚く、五輪への出場が閉ざされた。08年北京五輪予選は「中東の笛」で再試合になったが、エース宮崎大輔の奮闘も1歩及ばず。その後も予選敗退が続き、16年リオ五輪では実施28競技で唯一日本が出られない競技となってしまった。


<本田圭佑の大おじ大三郎氏、カヌーで五輪>

カヌースクールの子どもたちの前で笑顔をみせる本田大三郎氏(撮影・荻島弘一)
カヌースクールの子どもたちの前で笑顔をみせる本田大三郎氏(撮影・荻島弘一)

64年東京五輪カヌー代表の本田大三郎氏(83)も、ショックを受けた1人だった。ハンドボールは熊本・八代高で始めた。主将として活躍し、日体大にもハンドボールで入学。経済的な理由で中退(14年に特別卒業認定)したが、自衛隊入り後もプレーを続けた。

ルーマニア代表戦には全神奈川で出場。178センチ、73キロの大型FWとして活躍した。「ラグビーもやっていた」から対人も強い。五輪出場を目指したが、61年に除外。「そりゃ、ショックだった」と振り返った。

そんな時、カヌーの存在を知った。競技として普及していなかった日本で、本田氏の実力は抜群だった。「子どもの頃に地元の球磨川で流れてきた精霊流しの船で遊んだ。それと同じ。転覆せずに乗りこなすと、周りは驚いた」と話す。

必死の練習で、3年間で世界と戦えるまでに成長。「初のカヌー日本代表」として東京五輪出場の夢をかなえた。「体のバランスなど、ハンドボールの経験が生きた」。その後は代表コーチを務めるなど競技の普及と発展に尽くした。

「スポーツでは多様性が大切」と本田氏。長男の多聞氏はレスリングで3大会連続五輪に出場し、プロレスラーとしても活躍した。兄の孫の圭佑はW杯で活躍したサッカー選手だ。「それぞれに向くスポーツはある。今カヌーを教える子どもたちにも、自分のものを見つけてほしい」という。

2年後の東京五輪。「楽しみだね。もちろん、カヌーは見にいく。ハンドボールも見たいね」。競技除外のショックを乗り越えた83歳のカヌーイストは、豪快に笑いながら言った。

◆本田大三郎(ほんだ・だいざぶろう)1935年(昭10)2月17日、熊本県八代郡坂本村(現八代市)生まれ。熊本・八代高-日体大(中退)-自衛隊体育学校。横浜市消防訓練センターを定年退職後は各大学のカヌー部を指導し、現在は神奈川・三浦市で「マホロバ・ホンダカヌースクール」を主宰する。


■2020年は開催国出場

20年東京五輪では開催国として男女ともに出場が決定。32年ぶりに大舞台に挑む男子は昨年2月、世界的な名将ダグル・シグルドソン氏が監督に就任。欧州組欠場のアジア大会(8月)は4位に終わったが、194センチの部井久勇樹(19=レンヌ)や徳田新之介(22=タバシュ)ら若手が欧州で腕を磨いている。来年1月の世界選手権(ドイツ、デンマーク)に出場する。

ウルリック・キルケリー監督率いる女子は、スピードと機動力を生かして昨年12月の世界選手権で強豪相手に善戦。来年11月に熊本での世界選手権に臨む。