東京オリンピック(五輪)が来年2021年に延期になった。新型コロナウイルスの世界的な感染拡大の影響によるもので、来夏に開催できるのか疑問視されている。そんな中、日刊スポーツで過去の五輪取材を経験した記者、デスクは、何を思うのか? 2週にわたって掲載する。
■原点の「遊び」に返る時 佐藤隆志
スポーツの祭典、オリンピック。未曽有のパンデミック(世界的流行)にあっては「たかがスポーツ」と言わざるを得ない。スポーツとは「プレー」の言葉通り、源流は「遊び」にある。
オランダの文化史家ヨハン・ホイジンガ(1872年~1945年)が「ホモ・ルーデンス=遊ぶ人」と説いたように、人間の機能には先天的に遊びがある。誰しも子どもの頃、遊びに夢中になった。走る、泳ぐ、投げる。そんな遊びを誰もが共有できるよう整備され、遊び=スポーツは、社会経済の発展とともに競技性がより高まった。
近代五輪の原点をじかに知る機会があった。ロンドン五輪開幕を半年後に控えた12年1月、私は英国中西部にあるマッチウェンロックという人口2500人ほどの小さな町を訪れた。中心地からほど近い場所に大きな広場があり、そこには「近代五輪発祥の地」のモニュメントが立っている。
1850年代半ば、ブルックス医師は地域住民の健康と知性の向上を狙い、古代ギリシャをまねた「マッチウェンロック・オリンピック」を開催した。徒競走に始まり、自転車、石投げなど。小さな町の運動会は恒例行事となった。1890年、フランス人のクーベルタン男爵が学校体育の視察のため、この地を訪れた。そこで見た活気あふれる町の大運動会は「近代五輪の父」への大きなひらめきとなった。そこから1896年4月、アテネで最初の五輪開催につながった。
現地ガイドの言葉に耳を傾けながら広場を見渡すと、吹きすさぶ強い風の中、時空を超えて町民たちが歓喜する姿、そんなイメージを思い描くことができた。スポーツができる喜び。いわば安心、安全な日常を享受できる幸せが、そこにはあったのだろう。
けたたましいパンデミックによって目覚めた2020年、巨大な利権ビジネスと化した五輪の意義を問いたい。各競技団体による世界一を競う選手権やワールドカップ(W杯)が盛んな中、五輪までもが世界一を争う大会である必要はないだろう。競技力重視のプロスポーツとは一線を画し、クーベルタン男爵も見た「遊び」の要素を強くしたものへと、立ち返るタイミングではなかろうか。
巨額のスポンサー料や箱モノ文化にとらわれない、スポーツ(遊び)本来の姿。五輪とは4年に1度、世界にスポーツのある日常(平和)を喜び合う「祝祭」へ、その転換期にあると考えている。
◆佐藤隆志(さとう・たかし)91年入社。陸上、競泳を中心に12年ロンドン五輪取材。現在は東京五輪パラリンピック・スポーツ部のデスク。
■憲章貫き希望の大会に 三須一紀
東日本大震災が起きた時、私は仙台の支局に勤務していた。東北沿岸部の惨状を取材し、家族を失った被災者の話を聞いた当時、現場には希望のかけらすら見当たらなかった。歌手が次々に配信する復興ソングがむなしく聞こえた。震災直後の現場になじむ歌詞など、あるはずがなかった。
直接的、間接的問わず、新型コロナウイルスの被害を受け、同じように絶望している人もいるだろう。1年後の五輪開催を論じられても、どこ吹く風だ。それでも大会組織委員会や東京都は来夏に五輪を開催すべく準備にまい進している。組織委幹部はこう話す。「今、コロナ禍で踏ん張っている国民や医療従事者がいる一方で来年、希望となる五輪開催を目指し頑張る人がいても良いと思っている」。
組織委の職員は現在、約3800人。出向元は東京都庁が3割、国・地方自治体が2割、その他が民間企業、競技団体、契約・派遣職員という構成だ。数千億と言われる延期費用を1円でも削減し、大会を成功させようと汗を流している。
国際オリンピック委員会(IOC)にも正面からぶつかる。最近の大会では4時間と長丁場だった華美な開会式を簡素化しようと「2時間40分」への短縮案を提案。しかし、放送権契約の観点から「3時間30分以上は必要だ」と突き返された。初めてではない。これまで幾度となくIOCの“岩盤規制”に挑んできた。
森喜朗会長(83)武藤敏郎事務総長(77)もほぼ毎日オフィスに通い、五輪を通じたスポーツの発展、復興、健常者と障がい者の垣根をなくす多様性など、希望ある社会の実現を本気で目指してきた。担当した5年間で見てきた組織委は五輪成功に向けて実直だった。
だからこそ、災害やコロナで苦しみの中にいる人たちの気持ちを置き去りにしない、東京五輪にしてほしい。スポーツは見る者に元気や勇気を伝達する力がある。五輪憲章にあるように「より速く、より高く、より強く」という選手の躍動や、友情だけに焦点を当てる気持ちで、五輪をつくり上げる覚悟が見たい。IOCに屈せず、華美な部分を排した大会にすることが、希望を1人でも多くの人に届けることにつながるのではないか。
1年後の未来に東京五輪という目標があったっていい-。そう国民が思えるように。
◆三須一紀(みす・かずき)04年入社。文化社会部記者として16年リオデジャネイロ五輪、18年平昌五輪を取材。18年12月に東京五輪パラリンピック・スポーツ部に異動。
■選手を防波堤にするな 阿部健吾
「アスリートファースト」という言葉は決して、選手を「最前線」に立たせることを意味しない。しかし、このコロナ禍で、とくに東京五輪の話題になると、その危惧が頭をもたげる。
個人的な感覚だが、この数カ月でアスリートのメディアへの登場率が増えたように思う。そこで、語られるのは「1年延びても、あきらめない」「期待に応えられるように頑張りたい」という趣旨のメッセージが多い。開催できるかが不透明で、開催すべきかどうかの議論もある今。その情勢に、彼らの言葉はどう作用するのか。
不断の努力を続ける人たちの姿には、力をもらうことが多い。スポーツ選手の価値とは、克己であったり、何かを乗り越える姿を見せることにもある。新しい生活様式でも、アスリートの諦めない姿、発言を伝えることに意味はある。
しかしいま、目の前の現実の過酷さはかつてない。生活の不安が付きまとい、1年先にあるか不明瞭な一瞬の夢舞台では、その心配はぬぐい去れない。簡素化するとはいえ、多大な経費をかけて五輪を開催するのであれば、この不安に対し、いかに意義を説明をできるかが問われる。
いま、その大義を「コロナに打ち勝った証しとしたい」という言葉が政治からは聞こえてくる。この具体性、説得力がないスローガンは何だろうか。一方でIOCは、放映権料の関係で開会式の簡素化を許可しないと公言する。誰のための何のための五輪かが、一層不明瞭になってきている。
そこでいま、アスリートの言葉が「防波堤」として機能していないか。否定することが難しい選手の努力を伝える情報が最前線に立ち、意図がなくても大義が見えにくい現状を覆い隠してしまう-。どこかそんな「アスリートファースト」を感じ、懸念している。
会話を交わした、五輪出場経験がある元選手は、「一連のIOCの対応はあまりにも独善的。五輪という製品はどれだけの選手の労力の上になりたっているのかを認識してほしい」と指摘した。選手を「盾」にしたり、ないがしろにすることはあってはならない。このまま開催された場合、祝福を得られるかは疑問だ。「申し訳ないな」。そんな気持ちを抱いて舞台に立つ選手が出ないか。選手が「矢面」に立ってほしくない。そんな「アスリートファースト」はいらない。
◆阿部健吾(あべ・けんご)08年入社。五輪は14年ソチ、16年リオデジャネイロ大会を取材。現在はレスリング、体操、重量挙げ、ボクシング、フィギュアスケートを担当。ツイッター:@KengoAbe_nikkan
■消えたはずの「差別」が 宮下敬至
オリンピック憲章の前文1行目に「近代オリンピズムの生みの親はピエール・ド・クーベルタンである」と書いてある。
国立競技場の隣、日本スポーツ協会に銅像が立っている。2年前、侍ジャパン強化本部長の山中正竹氏(73)から、クーベルタン男爵について聞いた。当時は日刊スポーツの評論家だったDeNA三浦大輔2軍監督と一緒に、全日本野球協会の事務所へ。話題が「プロとアマ」に移った。
山中氏は「溝というか壁があるのは、本来おかしい。大ちゃんが息子さんとキャッチボールできないのは寂しい話。『アマチュア』という言葉は、1974年に憲章から削除されている。死語なんです」と言って続けた。
「歴史的には、クーベルタンのところから。『オリンピックはアマチュアの祭典だ』と。18世紀後半からの産業革命で、地位を得たブルジョアが、労働者階級を排除するための差別思想。アマチュアが礼賛された時代が、ずっとあった。『そうじゃない。最も優秀な人が競い合うべき』となって、ようやく削除された」
遅ればせながら、野球も年齢によるカテゴリー制を整備した。プロでも学生でもU23…残念ながら、実態として浸透していない。イチロー氏の学生野球資格回復が、あれだけ話題になる。普通ではない。
亡くなった星野仙一氏は「夢として、五輪はアマチュアに返すべきだ」と話していた。これはプロとアマをスパッと輪切りにした考え方。しかし同時に「25歳までとか、年齢の上限を定めて、若いプロもオーバーエージで加える」とも唱えていた。こちらは年齢層に基づく横の線引き。「最も優秀な人が競い合う」五輪の理念からは外れるだろうが、日本の野球界が目指すべき理念には、かなっていると思う。
6カ国で争う東京五輪の野球競技は、日本、韓国、イスラエル、メキシコが出場権を持っている。残り2チームを決めるアメリカ大陸予選と世界最終予選を、どうやって行うのだろう。現状のルールでは厳しい。
新型コロナウイルスは、人間が本能的に持つ「差別思想」をむき出しにさせた。感染者への目。アメリカで派生した、黒人に対する目。自分自身、サッカーやラグビーW杯の時のように「日本に来て!」と心から迎える気持ちになれる自信が、今はない。好転を願い、日本らしい球界のありかたを考える時間に充てたい。
◆宮下敬至(みやした・たかし)99年入社。整理部-04年の秋から野球部。担当歴は横浜(現DeNA)-巨人-楽天-巨人。16年から遊軍。08年北京五輪で野球競技を取材。現在は野球部デスク。
■不完全でもやる意義が 佐々木一郎
日刊スポーツ新聞社の社員として、東京五輪は開催して欲しいと思っている。4年に1度の夏の祭典は紙面をにぎわせ、明るい気持ちになる。しかし、多くの人に歓迎されないまま強引に開催することは、望んでいない。世界がコロナ禍にあり、延期には経費がかさむ。五輪開催をどこかで期待していても、声を上げにくい状況になっている。
安倍首相の言う「完全な形」での開催ができればベストだが、不完全なかたちでも開催すればいいのではないか。もちろん命は大事だ。そのため、予選を実施できない国・地域があるかもしれない。スタジアムには多くの観客を入れられないかもしれない。海外からの観客は少ないかもしれない。それでも、できる範囲で、できる限りの対策を練って実施すればいい。
それだけの価値、意義が五輪やパラリンピックにはある。
新聞記者になってから、1964年東京五輪を観戦した人、出場した人の話を何度か聞いた。いつも、うらやましい気持ちになった。56年前の五輪開会式では、原爆投下の日に広島で生まれた坂井義則さんが、聖火リレーの最終走者を務めた。入社してからこの事実を知り、メッセージ性の強さにうならされた。坂井さんの話を聞く機会にも恵まれた。新宿の居酒屋で、坂井さんが預けていた本物のトーチを持つと、歴史の重みを感じた。
取材では、大舞台の素晴らしさに直面した。忘れられないのは、2008年北京五輪の陸上男子100メートル決勝。ウサイン・ボルト(ジャマイカ)が9秒69の世界新(当時)で制した。スタート直前、満員の観衆が息を潜め、つばをのみ込み、歴史的瞬間を待つ。号砲直後、スプリンター8人が大きな波のように、目の前を通り過ぎた。ライブでないと味わえない感覚。競技時間は10秒に満たないが、10年以上たっても思い出は色あせない。
これを来年の東京で、多くの人に味わってもらいたい。あらためて書くが、世界最高峰のベストメンバーがそろわないかもしれない。満員だからこその雰囲気は醸し出せないかもしれない。それでもいい。延期されたからこそにじみ出る五輪の背景、苦労してたどり着いた選手の思いが事前にわかっていればより、五輪は楽しめる。あと約1年かけて、日刊スポーツとして、読者の皆さまにお伝えしていきたい。
◆佐々木一郎(ささき・いちろう)96年入社。00年シドニーパラリンピック、五輪は04年アテネ、08年北京、10年バンクーバー大会を取材。現在は東京五輪パラリンピック・スポーツ部デスク。
■ノーモアモスクワの愚 田口潤
本当に東京五輪が開催されると、心の底から思える人はどれほどいるのだろうか。コロナウイルス感染者が日々200人近く出ている東京。世界を見ても、コロナ禍の猛威は続く。闘いは長期戦が予想される。延期された本番まで1年。遅くとも秋までに、国際オリンピック委員会が「100%開催できる」と宣言できない限り、五輪中止、もしくは延期を決断すべきと考える。
先月、女子マラソンで五輪2大会連続メダリストの有森裕子さんが「年内に(開催可否の)判断がつかないならやめた方がいい。来年の3月まで引っ張ったら選手(の心身)が持たない」と述べた。その言葉は、まさにアスリートの本音と感じた。ギリギリまで開催可否を引き延ばすことは、決してアスリートファーストにはならない。
例えば陸上、水泳などで多用する高地合宿。16年リオデジャネイロ五輪で、競泳の萩野公介は高地から下りて、9日目にあったレースで金メダルを勝ち取った。いかに本番で最大限のパフォーマンスを発揮するか。コーチと綿密なプランを立てた成果だった。4年に1度の大舞台で、萩野でいえば4分余りで結果を出さなければならない。そのために、アスリートたちは、長期的な視野に立ち、1日単位の細かいスケジュールで調整を続ける。「本当に開催できるのか」と思わざるを得ない現状で、極限のモチベーションを保つことは難しい。
80年4月。モスクワ五輪開幕3カ月前に、日本のボイコットの方針が決まった。当時の代表で、日本レスリング協会専務理事の高田裕司氏は、日本オリンピック委員会会長で柔道の山下泰裕氏らとともに、泣きながら五輪参加を訴えた。その時、頭に浮かんだのは、五輪選考会に向けて、減量し、極限まで体を絞りながら調整を続けた後輩の姿。「毎日毎日、練習してきて、何のためにやってきたのか」と不条理に声を震わせた。直前の開催可否の決定で同じ愚を繰り返してはならない。
北島康介、萩野と金メダリストを育て上げた平井伯昌コーチは「金メダリストは誰にも負けられないし、一番負けちゃいけないのは自分。同じような力を持った選手が自分のことを疑ってレース前から負けていく。最後まで自分を信じて力を出し切った人間が勝つ」と話したことがある。先の見えないコロナ禍で「自分に勝て」というのは、あまりにも酷ではないか。
◆田口潤(たぐち・じゅん)94年入社。五輪は98年長野、04年アテネ、14年ソチ、16年リオデジャネイロ大会を取材。現在は東京五輪パラリンピック・スポーツ部デスク。