絞り込まれた肉体が、ついに対峙した。5月18日(日本時間19日早朝)に英スコットランドのグラスゴーで開催される階級最強決定トーナメント、ワールド・ボクシング・スーパーシリーズ(WBSS)バンタム級準決勝のゴングが鳴る。


公開計量を終えロドリゲス(右)とにらみ合う井上(撮影・滝沢徹郎)
公開計量を終えロドリゲス(右)とにらみ合う井上(撮影・滝沢徹郎)

前日17日の計量で、WBA王者井上尚弥(26=大橋)がIBF王者エマヌエル・ロドリゲス(26=プエルトリコ)と正面から顔を向き合わせた。時間にして約15秒。ともにリミットよりも100グラム少ない53・4キロでパスした両者は視線をそらさなかった。無敗王者同士の対決にムードは最高潮となった。

「やっぱり良い具合に仕上げてきている。過去最強の相手と言っても過言はないので、明日、しっかり精進して臨みたい」

簡単に倒せる相手ではないからこそ謙虚に、そして自信も忘れない。短い言葉に井上は決意を凝縮させていた。ほど良い緊張感が日本ボクシング界が誇るモンスターに漂う。「誰がバンタム級で1番強いのか」を決めるセミファイナルにふさわしい実力が拮抗(きっこう)した王者対決が始まろうとしている。

減量のため、気温29度に設定された大橋ジムで、井上は今月7日まで調整してきた。部分的とはいえ、異例となる非公開トレがピリピリ感を増幅させていた。

3日に報道陣に公開された練習はWBC世界同級暫定王者の弟拓真との軽めスパーリング2回のみ。いつもはリミット(53・5キロ)までの残りウエートを隠してこなかったが、今回は「あと5~6キロです」と冗談を言った後に「記事にしてほしくないです」と最後まで言わなかった。

「まだ試合まで日にちもありますし。長く、ゆっくり調整したいんです。(大勢の人の中で)風邪とかも気になりますし」

WBSSのことだけに集中したい-という気持ちが言葉からにじみ出る。

「それはこの大会のでかさ、そしてロドリゲスの実力を評価しているから。自分はこういう試合の方が実力以上のものを出せるタイプだと思っているので」

自らの好調を実感し、その口調にも自信があふれた。


公開計量をクリアしポーズを決める井上(右)。左は父の真吾トレーナー(撮影・滝沢徹郎)
公開計量をクリアしポーズを決める井上(右)。左は父の真吾トレーナー(撮影・滝沢徹郎)

つい3カ月前、井上本人にしか分からない不調に悩んでいた。2月16日のWBSS準決勝の日程決定会見後に行われた練習でのこと。世界挑戦経験もあるWBO世界スーパーフライ級3位石田匠(井岡)との公開スパーリングは、力任せのパンチが目立った。倒す気持ちが前面に出過ぎ、真正面から打ち合った。内容は勝っていても、珍しくパンチを浴びる場面もあった。高度な防御テクニックを持つ井上らしからぬ動きに、父の真吾トレーナーは怒り、練習途中にジムを出ていってしまった。

井上は「イメージが良くなかった。周りから『こういう戦いするんじゃないか』というイメージと、自分の考えが一致しない」とバラバラな状況を素直に吐露した。

昨年10月のWBSS1回戦で、元WBAスーパー王者フアンカルロス・パヤノ(ドミニカ共和国)をわずか70秒でキャンバスに沈めた。左ジャブからの右ストレート。セオリーのワンツーで仕留め、日本人世界戦の最速KOタイムをマーク。周りからの羨望(せんぼう)のまなざしや「次もすごいKOをしてくれるのではないか」という期待の目を感じていた。

「しようがないことなのですけど昨年の2試合が1回なので『次も1回でどう?』なんて聞かれるじゃないですか。自分は考えないようにしていても頭のどこかにあるんです。自分にスタイルにちょっと影響しているんです」

リングの外で、モンスターはヒューマンに戻る。ある意味、井上尚弥は人間味あふれるボクサーなのだ。

「ボクシング辞めようかなと思いました」と冗談半分で振り返るが、半分は本音でもある。

「それぐらいあの週はへこみましたよ。今まで、ここまでへこむことはなかったです」


会見後に取材に応じる井上
会見後に取材に応じる井上

石田とのスパーリング後、すぐに井上は異例の決断を下し、2人にメッセージを送った。真吾さんに「ごめんなさい」。そしてスパーリング相手を調整する大橋秀行会長に「スパーリングをいったん中断させてください」と。

タイミング良く、翌日から4泊5日のグアム合宿がセットされていた。ボクシング以外の走り込みメニュー。体をいじめ抜く練習に没頭した。南国でじっくり話す機会を設けたという真吾さんは「ナオは脳まで筋肉になっていましたよ」と苦笑いしつつ、「絡まったものを1つ1つほどけば大きな問題ではない。調子の波は誰だってある」と焦りはなかった。

17年秋ごろから太田光亮トレーナーが主にミット打ちを担当し、2人のリズミカルな動きを真吾さんがチェックするスタイルになっていた。だが、井上は小学校時代から指導を受けてきた父との親子ミットを集中的に消化した。

「初心に戻ることなんです。自分は今までどうやってやってきたのか。スパーリングでパンチもらってもいいから、倒しにいってしまう。それではダメなんです。初心の自分のボクシングではないこと」

あえてジムに足を運ばない日もつくった。自らの世界戦の動画もチェック。「自分の感覚を考え直したりもしましたね」。そんな約1カ月のスパーリング中断期間を経て、3月中旬から本格的なスパーリングを再開した時は、本物の「井上尚弥」に戻っていた。

フィリピン人練習パートナーとのスパーリングでは防御から鋭いパンチを打ち抜き、何度もカウンターも成功させた。

「もう大丈夫ですよ。リセットされましたから」

自力で壁を乗り越え、何事もなかったような軽い言葉で過去形にしていた。


2018年5月25日、WBA世界バンタム級タイトルマッチの1回、井上(左)は猛烈なラッシュでマクドネルを倒し新王者に
2018年5月25日、WBA世界バンタム級タイトルマッチの1回、井上(左)は猛烈なラッシュでマクドネルを倒し新王者に

決して自信満々になっている訳ではない。周りの期待感と自己評価の違いを受け入れ、心身ともに謙虚であることが1つの解答だった。井上は言う。

「周りに思われるほど納得していないし、自信はないですね」

本来の姿に戻った井上の動きに目を細めながら、モンスターの愛称を付けた大橋会長は「一時はどうなるかと思ったけど、やっぱり怪物だよ」と満面の笑顔。そして、何より運気を強調した。

当初、WBSS準決勝は2~3月で調整されていた。バンタム級、スーパーライト級、クルーザー級の3階級を同時進行させるため、運営面での障害も重なって開催時期がずれ込んでいた。約7カ月間は、井上にとっても故障以外では最長の試合間隔だが、大橋会長は「最初はなかなか準決勝の日時が決まらなくてイライラしたこともあったのだけど、結果的に決まらなかったことも良かった。当初の予定なら絶不調の時期に試合だったから」と安堵(あんど)の笑み。「5月までスライドしてくれたのは尚弥が運を持っている証明」としみじみと口にした。

井上はIBF王者ロドリゲスは過去最強の相手と認識している。「同世代、(180戦以上の)アマキャリアを含め、1番乗っている選手。やっぱり1番じゃないですかね」

さらに真吾さんも「本当に(実力は)五分五分とみている。どちらが強いのか。どちらか先にミスするのか。絶対にミスを犯してはならない展開になる。自分はナオを信じています」。


2018年10月7日、パヤノに1回KO勝ちした井上はガッツポーズ
2018年10月7日、パヤノに1回KO勝ちした井上はガッツポーズ

昨年は、10年負けなしだったWBA世界同級王者ジェイミー・マクドネル(英国)を112秒TKOで撃破。パヤノ戦の70秒KOと合わせて計188秒で世界戦2試合を終えた。そして迎えた19年初戦は、早期KO勝ちとは異なるインパクトも追求しようと考えている。

「違った面白さをみせながら。技術戦ですよ。フェイントの掛け合いとか。ジャブと距離がカギになる。どっちがペースを取るのか。絶対そうなってくると思うので」

今まで通り、12回フルに戦うことを想定し、そのためのテクニックを磨く。自然とロドリゲス対策を非公開にしたくなる理由も見えてくる。

先に決勝の対戦相手も決定した。5階級制覇王者のWBAスーパー王者ノニト・ドネア(フィリピン)が勝ちあがった。WBA5位ステファン・ヤング(米国)を下した準決勝は「見ましたよ、1ボクシングファンとして。今は準決勝で戦うロドリゲスに集中している。勝ってからドネアのことを考えます」と次戦だけを見据える。

これまでの日本ボクサーが到達したことのない世界、景色を見ようとしている。

「ゴングが鳴った瞬間、緊張感はマックスになると思うんですけれど、その緊張感を楽しみながら技術戦を、すべてにおいて楽しみながらやりたい」

8日の英国入りから現地メディアの取材にも対応。質問の多くはKO勝利への期待だった。もう以前の井上ではない。

「昨年、ああいう2試合しているので、期待されることは重々承知の上、ここまで来ていますから」

日が沈むと、真っ暗になったグラスゴーの街にブルー、グリーン、イエロー、レッドのライトアップされた多目的アリーナが浮かび上がる。エレガントに輝く、1万人以上収容のSSEハイドロが決戦の舞台。自力で不調の乗り越え、また一回り成長した井上が、ボクシング発祥の地にある最先端の会場で躍動する。【藤中栄二】