16年リオデジャネイロオリンピック(五輪)で柔道男子を全7階級メダルに導いた日本代表の井上康生監督(41)は、20年東京五輪で2度目の指揮を執る。

今年のテーマを「攻め」と掲げ、集大成となる大舞台へ、緻密な準備を進める。19年ラグビーW杯日本大会で史上初の8強入りを果たした日本代表に感銘を受け、柔道界も「ONE TEAM」となって、大勝負に臨む。【取材・構成=峯岸佑樹】

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勝負の年が幕を開けた。井上監督は、56年前と同じ日本武道館で行われる20年東京五輪へ並々ならぬ決意を示した。

「今年のテーマは『攻め』しかない。リオ五輪までの過程を含め、全てを東京五輪のために準備してきた。攻めの気持ちを忘れず、最後に大輪の花を咲かせたい」

男子代表が史上初の金メダルゼロに終わった12年ロンドン五輪後に監督に就任。リオ五輪では、金メダル2個を含む全7階級でメダルを獲得した。指導者として「熱意」「創意」「誠意」の3つの言葉を大切に、アスリートファーストの視点で変革を図った。選手に寄り添い、自主性を重んじた指導を貫いた。東京五輪代表は決まっていないが、昨年12月には10人以上の代表候補たちと面談し、代表になった場合のスケジュールを詰めた。五輪までを逆算し、情報共有しながら技術、体力、精神面などの計画を入念に練った。

「海外開催の五輪と同じような準備をしていては大きなマイナス。東京五輪は50年、100年に1度のとてつもなく特別な五輪だと捉えている。(競技発祥国として金メダル量産の)重圧や不安は当たり前。それがあるからこそ周到な準備ができる」

監督に就任して7年が経過した。多忙な合間を縫ってトレーニングに励み、現役時代より6キロ減量。筋骨隆々の肉体を維持し、戦う指導者として先頭に立ち続ける。全日本柔道連盟の内規で代表監督の任期は2期8年。節目の年に、自国で最後の大舞台を迎える。重圧で寝られない日々が続くが、自身を「幸せ者」と表現する。

「これほど生きがい、やりがいを感じられる瞬間はない。大好きな柔道で、集大成として戦えるなんてこれほど幸せなことはない。一生に1度、こんな大役を任されることも人生においてないと思う。支えてくれている方々に感謝し、腹をくくって完全燃焼したい」

19年ラグビーW杯日本大会から東京五輪につながる“ヒント”を得た。日本が準々決勝で南アフリカに敗れた直後、心が揺さぶられる出来事があった。大号泣した長男(9)から電話があり、「また、お母さんに怒られたのか?」と尋ねると「日本が負けたんだ…。あんなに頑張ってきたのに、これで終わりなんだよね。次は4年後なんでしょ。日本での開催は一生ないかもしれないんでしょう」と泣き続けた。

「ラグビーのすごさ、スポーツの力を改めて感じた瞬間だった。強烈な刺激を受けた。一番身近な9歳の息子からそんなことを言われてぐっときたし、考えさせられた。東京五輪も同じような気持ちになる人がいると思う。我々も柔道を通じて、スポーツの本質や価値を伝えたい」

その後、都内での強化合宿に、東海大の後輩のリーチ・マイケル主将(31=東芝)へ講演を依頼した。自国開催の大舞台に臨む心構えなどを説いてもらった。日本代表としての志や準備などについて聞いた。チーム力の大切さや、重圧から逃げずに楽しむ逆転の発想などを学んだ。

7カ月後の大舞台では個人戦だけでなく、男女混合団体も初めて実施される。五輪代表権を巡り、全階級で激しい争いは続いているが、「代表=チーム」としての位置づけもあると強調する。41歳の指揮官は、日本柔道界を背負う戦士たちにこう期待を寄せる。

「代表権は選手たちが勝ち取った努力の結晶。日本代表という誇りと責任を持って、胸を張って戦い抜いてほしい。不安や危機感がある中でも、選手たちは必ずやってくれると信じている。その思いで日々を歩んできた。最後は、選手、スタッフとともに、チームとなって攻めの気持ちで突っ走っていく」井上ジャパンの最終章が始まる。

◆柔道の東京五輪代表選考 男女各7階級1人で、選手の準備期間確保を重視した「3段階」による選考で決める。(1)19年世界選手権優勝者が同11月のグランドスラム(GS)大阪大会を制し、強化委員会で出席者の3分の2以上の賛成で代表入りが決定。男子は該当者なし(2)同12月のマスターズ大会(中国)、2月のGSパリ大会、GSデュッセルドルフ大会終了時点で、強化委の3分の2以上が1、2番手の差が歴然としていると判断すれば代表選出(3)最終選考は4月の全日本選抜体重別選手権で、強化委の過半数の賛成で代表決定する。

◆井上康生(いのうえ・こうせい)1978年(昭53)5月15日、宮崎市出身。5歳から柔道を始める。東海大相模高-東海大-ALSOKを経て東海大柔道部副監督。東海大体育学部准教授。00年シドニー五輪100キロ級金メダル。04年アテネ五輪では日本選手団主将。08年に現役引退後、指導者研究で英国に留学。12年11月に男子代表監督に就任。家族構成は妻、1男3女。183センチ。