東京は史上初めてパラリンピックを2度開催する都市になる。日刊スポーツでは3月を「パラリンピック月間」として、4週続けて特集する。第1回は1964年の東京パラリンピックに出場した近藤秀夫さん(79=高知県安芸市在住)に、当時とその後の人生を振り返ってもらうことで、パラリンピック開催の意義を探ってみる。【取材・構成=首藤正徳】

<夢見ていたリストバス>

 飛行機を下りたら、そこは別世界だった。羽田空港に車いすのまま乗車できるリフトバスが待っていた。近藤さんは当時入所していた大分県別府市の重度障害者センターから12人で上京した。東京パラリンピック開幕3日前だった。

 近藤 外国にリフトバスがあるという話は聞いたことはあったけど、夢のようでした。羽田から選手村まではパトカーに先導されて高速道路も初めて見た。最初から感動の連続でした。

 1964年11月8日に開幕した大会は、21カ国・地域から375選手が参加。近藤さんはバスケットボールや陸上など6種目に出場した。すでに障がい者がスポーツを楽しむ環境ができていた欧米とは競技力に決定的な差があった。

 近藤 バスケットの米国戦では相手選手が私たちにボールを渡してくれて、ゴールまで花道をつくって「ここを通って入れるんだ」と言ってくれて、得点が入るとすごく喜んでくれた。体格も体力も競技レベルもまるで違っていて試合になりませんでした。

 無理もない。当時、ほとんどの米国選手が仕事を持ち、健常者と変わらぬ生活をしていたが、日本選手は53人のうち自営業者1人を除く全員が、病院や障がい者施設で療養生活を送っていた。競技への知識も乏しかった。

 近藤 アーチェリーは弓矢みたいなものだと聞いて出場を決め、竹で作った弓と矢を選手村に持ち込みました。ところが恥ずかしいからと誰かに隠された。試合当日に初めてアーチェリーを使いましたが、矢がどこに飛んだのかも分かりませんでした。

 日本の獲得メダル数10個は13番目。金メダルは卓球の1個だけだった。

<社会復帰へ医師の勧誘>

 近藤さんは福岡県田川市の炭鉱での事故で脊髄損傷の重傷を負い、下半身が不自由になった。16歳だった。12歳で父を結核で亡くし、一家は離散。中学進学をあきらめて生きるために働いた。事故に遭った当時は運送会社に職を得ていたが、寝床は馬小屋の横のわら小屋だった。

 近藤 病院で目が覚めたら、白い布団の上で寝ているからびっくりした。ご飯も朝昼晩運ばれてきた。なんて自分は運が強いんだ、もう2度とこの生活は手放さないぞと思いました。

 重い障がいを「強運」と受け止める。そこには想像できないほど貧しく、厳しい時代背景があった。3年後、別府の重度障害者センターに移る。ある日、そこに国立別府病院の整形外科医の中村裕(ゆたか)医師が現れ、近藤さんら若い障がい者にスポーツを勧めた。

 近藤 東京五輪の2年前でした。20代で元気だった私に先生は「パラリンピックに出したい」と言って、お尻にできた床ずれの手術をしてくれた。その時に先生がパラリンピックの東京招致活動をしていることを聞きました。当時、先生はどうしたら障がい者が社会復帰できるか悩んでいた。それがスポーツと結びついた。翌63年、私たちは日本初の車いすバスケットボールチームを結成しました。

<車いす公務員日本1号>

 東京パラリンピックで近藤さんは競技以外でも印象に残っている光景がある。

 近藤 外国の選手たちが毎晩、選手村内のクラブで飲んで歌っていたんです。そんな陽気な障がい者は見たことがなかった。日本選手はみんな部屋から出なかったもの。スポーツを離れた生活も全然違っていた。とにかくパラリンピックで受けた衝撃は強かった。

 大会後、近藤さんは「自立」を決意して、10年暮らした障害者センターから出た。翌65年、東京の食品保存容器大手「タッパーウェア」の日本法人に就職。同社が結成した車いすバスケットボールチームのメンバーになった。

 近藤 ジャスティン・ダート社長の「障がい者が弱いのではなく、日本の障がい者政策にスポーツが入っていないから弱いんだ」の言葉に刺激を受けました。合宿所暮らしで毎朝20キロのロードワークが日課で、体力と競技力、何より自分に自信がつきました。

 66年のチーム解散後も仕事を変えて競技を続けた。仲間を集めて新チームをつくった。そこで難題にぶち当たった。

 近藤 どこも体育館を貸してくれない。タイヤの跡がつくからと。何とか借りた新宿の体育館も入り口に階段があって車いすでは入れない。都庁に通ってスロープをつくるよう訴えました。それが東京の障がい者が町づくり運動を始めるきっかけになったんです。

 以来、近藤さんは障がい者が生活しやすい町づくり活動に本格的に取り組むようになる。その縁で74年、「緑と車いすで歩けるまちづくり」を目指していた町田市に職員として採用された。39歳だった。

 近藤 車いすに乗った公務員の日本第1号でした。まだバリアフリーという言葉もありません。私は街に出て、障がい者の視点からいろんな提案をして、「福祉環境整備要項」の作成にかかわりました。

 95年の定年退職まで21年間、町田駅前のスロープやエレベーターの設置など、障がい者にやさしい町づくりに尽力した。07年に妻の地元、高知県安芸市に移住して、現在は障がい者の自立支援施設を運営している。

 5年後、近藤さんの人生を変えた東京パラリンピックが再び開催される。

 近藤 前回のパラリンピックは障がい者が社会に出るきっかけになった。それから半世紀で日本は大きく変わった。科学技術も経済も世界トップレベル、そして世界一の高齢化社会を迎えます。ですから障がい者も高齢者も一市民として生活できる、そんなモデル社会を世界にアピールしてほしい。こんなチャンスもう巡ってこないですから。

 ◆パラリンピック 64年東京大会を前に日本で作られた造語で、脊髄損傷などによる下肢まひを表すパラプレシアとオリンピックを組み合わせたもの。88年ソウル大会から正式名称になった。下肢まひ者以外も参加する現在は、パラをパラレル(平行)の解釈。「もう1つのオリンピック」という意味で使われる。

 ◆起源 48年ロンドン五輪開会式の日、英国のストーク・マンデビル病院で入院患者のために行われたスポーツ大会が国際大会に発展。大会を提唱したグッドマン医師を会長に、60年には国際ストーク・マンデビル大会委員会が発足した。この年に五輪開催地となったローマで行われたのが第1回パラリンピック。

(2015年3月4日付本紙掲載)

【注】年齢、記録などは本紙掲載時。