1964年(昭39)10月10日に開幕した東京五輪から51年。当時、日刊スポーツも連日8~10ページを割いて報道しました。取材陣は記者76人、アルバイト33人、通訳11人の計120人。「東京五輪メモリアル」第3弾は、本紙記者OB座談会です。記者だった宮澤正幸氏(85)、田口雅雄氏(83)、写真記者だった荒木日出男氏(79)の3人が当時の秘話を語り尽くしました。【取材・構成=荻島弘一、田口潤】
<前線基地は民家>
-東京五輪取材時の状況を振り返ってください
宮澤 34歳。一番脂が乗った時期だし、一番いい時期だった。
田口 ちょうど入社10年目の32歳。野球記者だったが、助っ人として五輪を取材することになった。国立競技場そばで地下鉄銀座線の外苑前にあった民家を借り上げ、前線基地にした。
荒木 入社4年目の28歳。陸上担当だったので毎日国立競技場に通っていた。
-一番記憶に残ったシーンは
宮澤 前半はレスリングで金メダル5個。後半は柔道で3個。金メダル担当記者だったな。印象に残っているのは柔道無差別級の神永昭夫。怪物ヘーシンク(オランダ)に抑え込まれた。超満員の1万3000人で埋まった武道館。負けた瞬間の静寂は忘れられない。直近の世界選手権でも日本勢は完敗していたが、知らない人も多かった。期待が高かったから、負けた後、神永の実家には「恥知らず」などの抗議電話が多数来た。
田口 おれは陸上男子100メートル。原稿は冒頭から「大きくタバコを吸い込み、ゆっくりそれを吐く。ちょうどそれが10秒0である」と書きだした。当時の編集局次長から「うんとキザに書け」と指示された。喜んで、いろいろ考えてね。何を書こうかと常に考えて苦労もしたが、ある日すっと降りてきた。
荒木 わたしは男子マラソン金メダルのアベベ。アベベが競技場に入ってくる後ろ姿を撮った。前回ローマ大会でははだしで優勝。靴を履いたアベベをどの瞬間で捉えるか。考えた結果、後ろ姿でもいいと。沿道で円谷を撮ってから、競技場の入り口で腹ばいになって、アベベを待った。
-五輪前には特集号の雑誌もつくったようですが
荒木 表紙は陸上100メートルの飯島秀雄(100メートル準決敗退、200メートル予選敗退)。早大の競技場で夕方撮ったな。
宮澤 表紙をだれにするかと企画会議が開かれた。大会前に当時の世界記録に0秒1迫る10秒1を出して注目された飯島が有力候補になった。僕は反対した。10秒で終わる100メートルより、2時間以上かかるマラソンの方が上だろうと、円谷を推した。当時は孤立無援だったけど、結果論的には自分の方が正しかったかなと。
田口 その飯島だけど、五輪の4年後にプロ野球のロッテに入団する。代走要員。ただやはり、陸上と野球は別物。3年間で23盗塁。逆に盗塁死は17回もあった。振り返った飯島は「プロ野球は目、陸上は耳」と言った。つまり陸上は号砲一発。プロ野球はベンチからのサイン、投手のけん制を見る。目と耳の差。彼は耳だけで走ったからプロ野球では成功しなかった。
-日本人以外でも印象に残った選手はいましたか
荒木 10種競技でアジアの鉄人といわれた楊伝広(ヨウ・デンコウ、台湾)。前回ローマ大会銀で金メダルが期待されたが、体調不良で5位。奥さんの肩を抱きながら2人で、競技場を出た。悔しさ漂う後ろ姿。アベベの後ろ姿に次いで印象深かった。
宮澤 あとで、台湾で行われた結婚式に行った。隣の席で取材したが、競技前に友人からもらった飲料水を飲んでから調子がおかしくなったと。自分は何かの謀略と見ている。32年ロサンゼルスから東京の前の60年ローマまで6大会連続で米国勢が金メダルを獲得していた。東京大会も米国勢を勝たせるためだったのではないか。楊伝広は最後まで口を割らなかったが。
<重宝された女性>
-今だから言える話はありますか
荒木 大会前、栃木の日光に記者と2人でソ連(現ロシア)の合宿取材に行った。当時は米ソの冷戦下。ソ連チームには亡命者が出ることを防ぐため、共産党政治局員が見張り役で来ていた。合宿では走り高跳びで金メダルを取ったワレリー・ブルメルと走り幅跳びで銅メダルのイゴール・テルオバネシアンと仲良くなった。夜に2人から「どこか飲みに連れて行って」と頼まれてね。記者と4人で宇都宮の飲み屋とキャバレーに行った。政治局員に隠れてね。
田口 陸上担当だったけど、自分には「軍師」がいた。60年ローマ大会の棒高跳び代表の安田矩明。本紙記者で、その後、中京大教授になったが、陸上については何でも知っていた。棒高跳び金メダルのフレッド・ハンセン(米国)の卒業論文の題が「ジャンプにおけるグラスファイバーの研究」ということまで知っていた。取材する上で助かった。
-現在の選手村は部屋こそ男女別だが、同じ建物。当時は男女で選手村が分かれていたようですね
宮澤 男女棟の間は柵があった。男性記者は女子棟には入れない。一方で女性記者は男女棟を自由に行き来できた。だから、女性記者、カメラマン、通訳は重宝された。
荒木 日刊スポーツにも女性カメラマンがいた。
-パソコンもデジタルカメラもなく、取材では苦労したのではないですか
荒木 今はカメラの連写が可能だが、当時は1枚撮って巻くスタイル。もちろん白黒。連続で撮れないから、瞬間を待ち構える。緊張感があった。撮ったら会社にすぐ帰って現像した。
田口 携帯ファクスもあったが、東京五輪のときは原稿を電話で吹き込んだ。野球でもそうだったが、いろいろ間違いもあった。野球を知らない競輪記者が電話をとって「右中間」を「宇宙間」とかね。
-東京に五輪が来たことで日本のスポーツは変わりましたか
宮澤 アマチュアスポーツの注目度は上がった。
田口 それまでのスポーツ紙は野球、相撲、ボクシングとプロ競技が中心だった。
宮澤 他紙に比べれば、アマチュアスポーツを取り上げていたが、さらに会社から「もっと力を入れろ」と大号令がかかった。
-逆に負の面はありますか
田口 マラソンの円谷幸吉、女子ハードルの依田郁子は自殺した。日本人は昔から、すぐに選手を祭り上げ、過度な期待をかける傾向がある。それはメディアも含めて。2人は重圧に苦しんだ反動もあったのではないか。ある種の冷静さは必要だろう。
-2度目の東京五輪が決まったときはどんな気持ちでしたか
荒木 ヨッシャーと燃えるものがある。ただあと5年。取材はしたいが、できるかどうか。
宮澤 あと5年で90歳だが、取材をするつもり。ある人から、東京大会を2回取材するのはギネスブックと言われている。
田口 決まったときは感慨深かった。ひょっとして、オレも行けるかなと。新聞記者は現場が生命。現場には躍動感がある。
-最近は新国立、エンブレム問題と失態が続いていますが
宮澤 64年東京大会はアマチュアリズム。20年東京大会には崇高なオリンピック精神はない。
荒木 金まみれになるだろうね。
宮澤 すでに兆候が出ている。前回もいろいろあったかもしれないが、スポーツ界には東京招致の中心人物でもあった、日本水連会長で組織委員会の事務総長の田畑政治というスポーツ界に強烈なリーダーがいた。
田口 ちょっと政治を持ち込みすぎてるね。今度の五輪は。
宮澤 政治と金。だから前のような純粋な感激を得られないかもしれない。
田口 やればそれなりの感動は生まれる。ただ、それまでの過程に、不愉快なことが多すぎる。あと5年、もっとあるかもしれない。スポーツ庁長官には鈴木大地氏が就任した。田畑氏と同じ水泳界出身。スポーツの現場出身の人に頑張ってもらいたいし、主導権を握ってほしい。
◆荒木日出男(あらき・ひでお)1936年(昭11)2月15日、東京都生まれ。日大芸術学部卒。54年入社。プロ野球では巨人のON時代を担当。大相撲、ゴルフとあらゆる種目を担当。東京五輪のアベベの写真では、昨年来日した息子のイエトナイエトさんから感謝状が贈られた。
◆田口雅雄(たぐち・まさお)1932年(昭7)4月8日、東京都生まれ。早大文学部卒。55年入社。野球記者として巨人、大毎(現ロッテ)東映(現日本ハム)などを担当。編集委員時は元巨人監督の川上哲治氏を担当。東京五輪は野球記者から助っ人で取材。
◆宮澤正幸(みやざわ・まさゆき)1930年(昭5)2月15日、神奈川県生まれ。拓大商学部卒。54年入社。大相撲、レスリング、柔道、体操を担当。東京以外に88年ソウル、92年バルセロナ、96年アトランタ、04年アテネ大会取材。
(2015年10月21日付本紙掲載)
【注】年齢、記録などは本紙掲載時。