馬術の聖地である馬事公苑(東京・世田谷区)は戦争により幻に終わった1940年(昭15)東京五輪用に造成され、64年東京五輪で日の目を見、そして2020年東京五輪で生まれ変わる。昨年12月31日で休苑し、東京ドーム4個分にあたる約18ヘクタールの敷地を全面改修工事中。馬術家で馬事公苑の生き字引、西村修一氏(86=写真)がレガシーの過去と未来を大いに語った。【取材=高木一成、松田直樹】


西村修一氏が語る馬事公苑の過去・現在・未来

 僕の人生は馬事公苑とともにあると言ってもいいでしょう。小さい頃は造成前の芝でよく野球をしたものです。馬事公苑は1940年に開苑しましたが、すぐに戦争が始まってしまってね。それから輓馬(ばんば)の養成施設として利用されたので、最初に行われた競技会は馬術の国体予選が開催された46年春だったのではないでしょうか。そこで優勝し、今は彫刻家をしながら関わりを持たせていただいています。

 64年東京五輪の馬術競技は、馬事公苑で馬場馬術、国立競技場で障害飛越、軽井沢で総合馬術が行われました。馬術が目玉スポーツだったというのは、開催日程を見ればわかります。なにせ、最終日にも唯一競技が行われたわけですから。

 最終日の昼休み、既に馬場馬術で金メダルを獲得していた馬の供覧を馬事公苑で行ったんです。この時の金メダリストはスイスのアンリ・シャマルタン選手。大観衆の前で、点数に関係なく一般大衆に見せる演技を披露したのは唯一、馬術だけでした。言わずもがな五輪は平和の祭典です。勝ち負けを抜きに、馬術がその象徴となりました。

 そして、東京五輪の最終種目として、障害馬術の第2次走行が国立競技場で行われ、閉会式となりました。日本では野球の王さん、長嶋さんを誰もが知っているように、欧州では馬術の名選手を一般の方でも知っています。それだけ普及、関心の度合いが違いますし、馬術を通じて、日本が世界に向けて平和を発信する意義も大きかった。いいアピールになったと思います。

馬事公苑の生き字引、西村修一氏
馬事公苑の生き字引、西村修一氏

 とにかくあの時代から欧州は人も馬もすごかった。彼らの滞在中は、早朝から馬事公苑まで練習を見に行ったものです。フィラトフ、シャマルタン、ディンツェオなど一級品の選手たちを見て「ここまで違うものか」と嘆息した記憶があります。人馬の動きの切れをはじめ、競技のレベルは僕らがやってきた馬術の延長線上にはなかった。層が違いましたし、馬と会話ができるのではないかと感じさせるほどの動きでした。最近は杉谷泰造選手などが海外を活動拠点にしたり、JRA所属の北原広之選手も頑張っています。でも、当時はそれだけの差を感じていました。

 今でも、西竹一さん(32年ロス五輪の障害飛越で金メダル)が硫黄島で戦死しなければ、日本の馬術界はもっと良くなっていたと思っています。あの五輪は欧州勢の参加がなかったため金メダルが取れた背景もありますが、それにしてもあの方はうまかった。今後、馬術普及のためにも、広告塔になり得る選手が出てきてほしい、という願いがあります。


 五輪開催が決まった以上は、成功させないといけない。しかし、馬にとって湿度85%、気温35度を超える環境は、はっきり申し上げて良くない。国際馬術連盟の規定にも、馬の健康に悪い状況では競技会を行ってはいけないと明記されています。前回の東京五輪開催時の平均気温は20度前後。今とは状況が違いすぎる。環境次第では欧州の有力馬が来なくなってしまう可能性もあります。08年北京五輪はナイター開催でしたし、ミストの状況などを勘案して、できる限りベストの環境を整えてあげてほしいと思います。


 ◆西村修一(にしむら・しゅういち)1930年(昭5)5月13日、東京都生まれ。慶大卒。50年全日本学生馬術選手権個人優勝、56年全日本選手権グランプリ馬場馬術競技優勝など、受賞歴多数。国民体育大会出場14回(優勝7回、2~3位5回)。01年、馬場馬術世界ランキング82位。日本馬術連盟理事、関東高校馬術連盟会長などを歴任。また、馬の彫刻家として国内外で個展を開く。


 ◆馬事公苑 東京都世田谷区上用賀にある馬場や1100メートル走路を備えた公園で、JRA(日本中央競馬会)が運営する。馬術選手育成を目的として、1940年(昭15)9月29日に開苑。64年東京五輪の馬場馬術競技会場になった。普段は馬と触れ合える公園として親しまれ、入場は無料。各種馬術大会が定期的に開催され、秋分の日の「愛馬の日」やGWのホースショーなどでは、一般の人が楽しめる体験乗馬や馬車試乗会、流鏑馬(やぶさめ)、相馬野馬追等さまざまなイベントが行われる。

 82年に競馬学校(千葉・白井市)ができるまでは、中央競馬の騎手養成所が置かれていた。2016年末をもって休苑。在厩していた56頭の大半は馬事公苑宇都宮事業所に移った。20年東京五輪に向けて全面改修工事中で、22年秋に完成する。


 ◆馬術 五輪の馬術は、馬場馬術、障害飛越、総合(馬場+障害+クロスカントリー)の3競技で、それぞれ個人、団体がある。男女の区別や年齢制限はない。馬場馬術は、演技の正確さや美しさを競う。障害飛越は、障害物を決められた順番通りに飛越、走行し規定時間内のゴールが求められる。総合は、この2つにクロスカントリーを加えた3競技を同一人馬のコンビネーションで3日間かけて行う。2020年東京五輪は馬場馬術と障害飛越が馬事公苑で行われ、総合は海の森クロスカントリーコースで行う。

64年東京五輪 井上喜久子
64年東京五輪 井上喜久子

◆64年東京五輪の日本選手成績 総合馬術は千葉幹夫の34位、馬場馬術は井上喜久子の16位、障害飛越は佐々信三の38位が最高。馬場馬術団体は6チーム中6位入賞。


工事費約276億円

 馬事公苑は2020年の東京五輪開催に向けて現在リニューアル中だ。馬術の聖地と呼ばれるが、苑内の多くの施設は、前回の東京五輪の前後に建築されており、近年は大きな大会を行うには基準を満たせなくなり、老朽化も進んでいた。全体の工事費約276億円(建築費+土木工事費+設備工事費)、設計費18億円をかける今回の改修は、あらためて日本馬術の中心地として生まれ変わるきっかけになる。JRA馬事部馬事振興室の吉田年伸オリンピック・パラリンピック対策課課長は「国際基準を満たしたものを造ることで、五輪後も国内外のトップクラスの馬術競技会を開催できる施設としていきたい。前回の東京五輪が、その後の日本の馬術や乗馬の普及、振興の礎となったと諸先輩からうかがっています。東京2020大会も同様のきっかけになってほしいですね」と話す。主な変更点は以下の通り。

 ◆現在のメインアリーナ(砂馬場)とグラスアリーナ(芝馬場)をひとつにまとめる。五輪・パラリンピック期間は、メインアリーナを取り囲む仮設の観覧席を1万4000席設置する。

 ◆馬術競技の世界基準に合致する欧州産のサンドダート(砂とフェルト生地などの合成繊維を混合した素材)を導入。これまでのものより滑りづらくグリップ性能がいい。

 ◆各馬房の広さは、これまでの約10・6平方メートルから12平方メートルに。数も95馬房増の合計400馬房を備える。

 ◆東京五輪の期間中は馬には天敵である暑さが心配される。厩舎へのエアコンやミストシャワー設置などで、馬が快適に過ごせるよう配慮する。

 東京五輪までに競技会場施設を中心に整備する第1期工事は19年のプレ大会までに終了。五輪後に追加の施設を整備する第2期工事は22年終了を見込んでいる。


着工前に訪れ懐かしむ

<開催64年に馬事公苑の騎手養成所入所「花の15期生」>

 五輪開催年の64年に馬事公苑騎手養成所に入所した「花の15期生」のメンバーが昨年末、着工前の同苑を訪れ懐かしんだ。ダービージョッキーとなった3人が当時を振り返った。

左から柴田政人調教師、岡部幸雄氏、伊藤正徳調教師
左から柴田政人調教師、岡部幸雄氏、伊藤正徳調教師

 伊藤正徳調教師(68) 入所した時は既に五輪へ向けた工事が始まっていた。追い馬場など素晴らしい施設だった。選手の練習場になったので、我々は千葉の白井、宇都宮に移って訓練を積み、五輪が終わって馬事公苑に戻った。60年近くこの世界で生きてこられた出発点。幸せな人生を歩ませてくれた1歩だった。新しくなる馬事公苑の設計図を見せてもらったが、かなり変わる。昔のイメージはなくなるね。生まれ変わっても、馬に関することの発信基地であってほしい。 


 岡部幸雄氏(68) 馬事公苑にいた頃が懐かしいよね。周りに自然がたくさんあって、地域の人にとっても憩いの場所になっていたと思う。新しくなってどんな施設になるか楽しみ。


 柴田政人調教師(68) 外国の馬が早めに来ていたので、選手たちと風呂に入った覚えがある。日本選手の練習も見た。まだ五輪の盛り上がりを感じるほどではなかったけれど、機運が高まっては来ていたね。


馬場馬術で2020年東京五輪出場を目指すJRAの北原広之氏
馬場馬術で2020年東京五輪出場を目指すJRAの北原広之氏

「東京じゃなければ諦めた」北原広之氏ロゲ会長一声で情熱再び

 馬場馬術で東京五輪出場を目指すJRAの北原広之氏(45)にとって、馬事公苑は自身のルーツともいえる場所だ。

 父もJRAの職員だった。社宅は馬事公苑のすぐそば。「ザリガニやカブトムシを取りに行ったり、物心つく前から遊び場。馬には8歳から乗り始めました」。めったに使わないグラスアリーナは子供心にも神聖な場所。64年の五輪会場だったこともいつの間にか知っていた。「小学生の時にはオリンピックに出たいと思っていました」。自然と憧れを強くした。

 大学4年時には全日本学生馬術3大大会に優勝。明大馬術部の伝説の17連覇の快進撃は、その年が始まりだった。95年にJRAに入会後も馬事公苑勤務一筋。ドイツの名門厩舎での修業などを経て、04~06年の全日本馬場馬術選手権で3連覇するなど実績を積んだ。

 だが、まだ五輪出場には至ってない。北京五輪の時は予選終盤まで3人枠に入っていたが、最終選考会で4位に転落。「正直、心が折れました」。続くロンドン、リオも出場枠には届かず、管理職として若手も育てなければいけない立場にもなっていた。

 五輪への情熱が再び燃え上がったのが、13年9月8日。IOC総会で2020年の五輪開催都市が発表された瞬間だ。「早朝でしたけどずっとテレビを見てました。もし、東京だったら、もう1回挑戦しろってこと。違う都市だったら、もう諦めろってことだろうって」。日本時間午前5時20分、ロゲ会長が読み上げたのは「TOKYO」。五輪への道はまだ続いていた。

 当初の予定が変更され、馬場馬術の会場が馬事公苑となった。「自分が小さいころから通った場所で五輪なんて。もちろん出場したい気持ちは今まで以上。夢みたいな話を、今も夢見ていられる。本当に幸せです」。来年以降は、わずか3つの東京五輪出場枠を目指し、世界を転々とする日々が待っている。



(2017年4月26日付本紙掲載)

【注】年齢、記録などは本紙掲載時。