パラリンピックは障がい者だけのものじゃない。健常者でも大会のメダルを目指す選手がいる。視覚障害者陸上の伴走者、中田崇志(37)は15年パラ世界選手権の銅メダリスト。ブラインドランナーの和田伸也(39)とともに、20年東京大会でのメダル獲得を目指す。自転車タンデム、ブラインドサッカー、パラトライアスロン…、障がい者とともに、健常者もパラリンピックを戦う。


15年IPC世界陸上選手権で和田の伴走者で獲得したメダルを手にする中田(撮影・山崎哲司)
15年IPC世界陸上選手権で和田の伴走者で獲得したメダルを手にする中田(撮影・山崎哲司)

中田崇志 視覚障害者陸上

伴走14年 何度も表彰台


 東京・江東区にあるNTTデータの会議室、スーツ姿の中田は照れたように、そして誇らしげに、銅メダルを見せた。15年のドーハ世界選手権、和田と一緒に獲得した男子5000メートルのメダルは輝いていた。

 中田 形になるものがあると、見せることができますから。ただ、私だけがもらっていいのかという思いはあります。毎朝5時に和田さんを迎えに行き、一緒に走るおじさんもいる。何十人、何百人が和田さんを伴走している。私だけの力じゃないですから。


 障がい者とともにメダルに輝ける競技だが、ハードルは高い。5000メートル以上は2人の伴走者が認められるが、メダルは1人で走った場合のみ。さらに、パラリンピックなどで不測の事態に備えて予備の伴走者を登録してもメダルはない。中田は12年ロンドン大会で和田と3位になったが、予備伴走者を登録していたためにメダルはなかった。

 中田 当然ですよ。ドーハの時は直前で体調を崩してひどい状態だった。私がダメで和田さんが勝てなかったら最悪。今は、1人がダメでも問題なく走れるように、交代で和田さんを伴走している。少しでもリスクは回避しないと。


 笑顔で話す中田が、伴走を始めたのは03年。陸上専門誌でトップランナーの高橋勇市が伴走者を探しているのを知ったからだ。すぐに連絡し、いきなり未知の伴走の世界に飛び込んだ。

 中田 何も知らなかったけれど、意外とできた。視覚障害ランナーは多くの人と走るから、その場ですぐに合わせられる。高橋さんは一瞬で合わせてくれた。相手に合わせなければと思うけれど、逆です。これなら、できそうだと思った。もっとも、翌日はロープを持っていた側の体の半分が筋肉痛で大変でした。緊張したんですね(笑い)。


 翌年のアテネ大会でマラソン金メダルの高橋を伴走した。06年パラ世界選手権マラソンでも高橋の優勝を支えた。和田の伴走者となってからも世界選手権、パラリンピックで何度も表彰台に乗った。誰もが認める伴走の第一人者になった。NTTデータの広報部に所属し、仕事は多忙。練習時間捻出に苦労している。

 中田 仕事が12時を回って練習ができない時は、乗換駅から(世田谷の)自宅まで革靴とスーツで走ります。まあ、10キロちょっとですから。週末は多くして、1カ月400キロは走るようにしている。目安は1500メートルで4分を切ること。20年前に切ってからキープして、タイムも高校からほとんど変わらない。

 今は和田とともに東京パラリンピックのメダルを目指している。京都の和田とは毎日一緒に練習できない。2人をつなぐロープはスマホ。リアルタイムで送られてくる練習データをもとに、練習計画を練る。

 中田 距離、コース、心拍数、体の上下動、接地時間、左右の加重バランスなど多くのデータが分かります。その数字をもとに、いろいろと話します。視覚障害の人には感覚を数値化して伝えるのが大切。数字は大事、陸上は統計ですよ。大学(東京学芸大)の野口(純正)コーチがデータ分析のスペシャリストで、その影響も受けてますね。


 中田は和田の接地時間の短さに着目。多くのランナーのデータを集め、タイムロスにつながっていることに気付いた。足首が硬く、すぐに地面を蹴ることで力が上向きになっていた。リオ後に柔軟性を増すトレーニングを開始。その成果は確実に出ている。

 7月14日開幕の世界選手権(ロンドン)に向かう和田は「我々の」と話し「自分たちは」と言う。「意識はしていないけど、自然と複数形で話していますね。全幅の信頼を置ける人。一緒に戦う人」と中田を評する。20年のゴールを目指して、2人を結ぶロープはより強固になる。【荻島弘一】


競技力と環境整備「第2の中田」期待

 日本盲人マラソン協会の安田亮平強化委員長は、中田を絶賛する。「競技能力はもちろん、今の立場を築いたことがすごい」。同協会では定期的な練習会や講習会を通して、伴走者を養成。ランニングブームもあって「やってみよう」という人材は決して少なくない。ただ、競技者レベルでは難しい。視覚障害者陸上の競技力向上に合わせ、伴走者にも競技力が求められる。さらに、大変なのは継続すること。海外遠征も多く、仕事との両立ができない。「会社と粘り強く交渉し、自分がやれる環境を作った。彼のような伴走者はいないです」と、安田氏は「第2の中田」が出てくることを期待していた。


リオパラリンピックで和田(左)と伴走の中田
リオパラリンピックで和田(左)と伴走の中田

 ◆中田崇志(なかた・たかし)1979年(昭54)10月23日、東京都生まれ。都立西高―東京学芸大と陸上部に所属し、学生選手権3000メートル障害7位。NTTデータに入社後、ニューイヤー駅伝にも出場した。デュアスロン(バイク、ラン)では日本トライアスロン連合強化指定選手として世界選手権出場。登山競技で国体にも出た。競技者としてレースに出場し、指導者として「マラソン完走クラブ」を主宰している。


 ◆和田伸也(わだ・しんや)1977年(昭52)7月9日、大阪府生まれ。大阪・生野高―関西大。高2の時に網膜色素変性症と診断され、大学3年で視力0に。06年に視覚障害者クラブ賀茂川パートナーズでランニングを始める。国内の大会で好成績を収め、10年にアジアパラ5000メートル4位。11年の世界選手権ではマラソン銅メダル、12年ロンドンパラ5000メートルで銅メダル。15年世界選手権5000メートル銅、16年リオパラは3種目で入賞した。


田中まい 自転車タンデム

リオ鹿沼と銀 唯一のメダリスト


 プロの女子競輪選手田中まい(27)は、自分が健常者で日本勢ただ1人のパラリンピックメダリストであることを知らなかった。「えっ、そうなんですか? 責任、あるんですかねぇ。東京のことは考えていないんです。やり切ったので」。ホーム千葉競輪場での練習後、優しげな顔にちょっぴり戸惑いが浮かんだ。

 昨年のリオデジャネイロ・パラリンピックの自転車女子タンデム(視覚障害)個人ロードタイムトライアルで、パイロットとしてストーカー鹿沼由理恵(36)の銀メダル獲得をサポートしてから9カ月。今は本業ガールズケイリンの選手として活躍している。

 昨年5月から5カ月間、競輪を休んでタンデムに専念した。手にしたのはメダルだけではない。「何人かの選手が『私も機会があれば』と言ってくれるようになりました」。鹿沼のメダルにかける思いに加え、日の丸の重責がのしかかった。リオで生まれて初めて味わった緊張感をくぐり抜けて「私のメンタルも強くなりました」と話す。

 周囲や自分自身に起こった変化が達成感につながっている。だから3年後の東京についてこう言った。「あんな体験、そうはできない。だからほかの人にもチャレンジしてほしいんです」。メダリストとしての経験を伝え、合宿にも参加しながら強化には協力していく。それに加え、強い競輪選手になることが責任だと感じている。【小堀泰男】

 ◆障がい者自転車競技 選手の障害の種類と使用する自転車によって2輪のCクラス、3輪のTクラス、ハンドサイクルのHクラス、2人乗りタンデムのBクラスに分けられる。タンデムは健常者のパイロットが前に、視覚障害者のストーカーが後ろに乗ってタイムや順位を競う。パイロットがハンドルとブレーキを操作し、ストーカーは推進力を自転車に伝える役割を担う。ストーカーは「石炭をボイラーに送る人」の意味。


ホームの千葉競輪場でリオ、東京について語った田中(撮影・小堀泰男)
ホームの千葉競輪場でリオ、東京について語った田中(撮影・小堀泰男)

 ◆田中(たなか)まい 1989年(平元)12月25日、千葉市生まれ。千葉経大付高入学後に自転車競技を始める。日体大4年時に全日本学生の3キロ個人追い抜き、個人ロードレースで優勝。ユニバーシアード中国大会3キロ個人追い抜き7位。大学卒業後に日本競輪学校に104期、ガールズ2期生として入学し、13年5月にデビュー。リオでの他種目は1000メートルタイムトライアル5位、個人追い抜き6位、個人ロード10位。父進さん(63)も元競輪選手。


榎本達也 ブラインドサッカー

元J1東京GK 代表へ奮闘中


 元J1東京GKの榎本達也(38=現東京アカデミーコーチ)が、視覚障害者らによる5人制サッカー(ブラインドサッカー)日本代表強化指定選手として奮闘している。今年2月から代表合宿に参加。予備動作が少ないセービング技術は今も健在だ。「ルールも複雑でサッカーとは全く違う競技。選手の技術に驚くばかりで1歩1歩前に進みたいです」と話す。

 今年からルール改正で縦2メートル、横3メートルだったゴールサイズが縦2・14メートル、横3・66メートルに拡大された。これを受け、高田監督が「大型GK」の発掘に着手し、昨年12月に現役引退した榎本に要請した。日本はパラリンピックの出場経験がないが、20年東京大会でのメダル獲得を目指している。榎本は「やると決めた以上、仲間と技術を高め合って、結果的に金メダルを目指せるところまでいきたい」と意欲をみなぎらせている。【峯岸佑樹】


2月、ブラインドサッカー日本代表強化合宿のミニゲームでGKを務める榎本
2月、ブラインドサッカー日本代表強化合宿のミニゲームでGKを務める榎本

 ◆榎本達也(えのもと・たつや)1979年(昭54)3月16日、東京都生まれ。6歳でサッカーを始める。浦和学院高から97年に横浜入り。99年ワールドユース日本代表。横浜では元日本代表GK川口の陰に隠れ3年間出番がなかったが、01年にナビスコ杯(現ルヴァン杯)最優秀選手を受賞。神戸、徳島などでもプレーして15年に東京に加入。16年12月に現役引退。J1通算223試合に出場。190センチ、82キロ。血液型O。


パラトライアスロン

 パラトライアスロン(視覚障害)も健常者のガイドがともに戦う。規定ではガイドは同性で、スイム、バイク、ランを1人でこなさなければならない。距離こそ五輪の半分(スイム0・75キロ、バイク20キロ、ラン5キロ)とはいえ、高いレベルで伴走しながら、3つをこなすのは簡単ではない。

 リオ大会女子優勝のケイティ・ケリー(オーストラリア)のガイドは、元名選手としても有名なミシェリー・ジョーンズだった。世界選手権を2度制したジョーンズは、00年シドニー五輪の銀を上回る金メダルを手にした。ガイドにも、高いレベルが求められる。

 日本もガイド不足に悩んでいる。タンデム自転車は練習環境が整わず、大会出場になれば費用もかさむ。なり手がないのが実情だ。日本トライアスロン連合パラ対策チームの富川理充リーダーは「プロジェクトで取り組んでいますが、なかなか難しい。そこが課題ですね」と話していた。


(2017年6月28日付本紙掲載)