新型コロナウイルス感染症で東京オリンピック(五輪)は来夏に延期となった。先が見通せない2度目の自国五輪。期待と不安を抱えて2021年を目指す選手に対して、1964年東京五輪のオリンピアンが、心の持ち方、試合に向かう指針、エールなどを語った。マラソン、競泳、柔道、レスリング、バレーボール。かつて東京で人生をかけ戦った先人たちの言葉に耳を傾ける。

延期残念だが正しい選択 重圧分かるマイペースで

君原健二さんは東京五輪時のユニホーム、シューズとメキシコ五輪の銀メダルを胸にガッツポーズ
君原健二さんは東京五輪時のユニホーム、シューズとメキシコ五輪の銀メダルを胸にガッツポーズ

<男子マラソン8位 君原健二さん>

君原健二さん(79)は64年東京大会を含めて五輪で3度、マラソンを走った。五輪初挑戦の自国大会では実力を出し切れず8位。「自己記録から約3分半遅れた。重圧を感じすぎ、精神的な弱さが出た」。穏やかな表情で振り返る。

当時、日本人最高3位でゴールしたのが故・円谷幸吉選手だ。メダル獲得に充実感を得た様子だったのかと思いきや、正反対だったと君原さんは証言する。「レース後、悲しげな表情でベッドに横たわっていた。棄権したのかと思ったほど」。日の丸が揺れる国立競技場に2番手で戻ってきながら力尽きたことを、銅メダリストは悔やんでいた。

68年メキシコ五輪。君原さんは再びスタートラインに立った一方、同学年のチームメートはもう、この世にいなかった。練習では自分のことで精いっぱいだったが、号砲前にふと思った。「きょうは円谷さんのために走ろう」。4年前の円谷選手と同じく2番手で終盤へ。競技場近くで珍しく背後に視線を向けると、追い上げてくる選手の姿を確認した。「いま思うと、最後に抜かれた円谷さんのインスピレーションがあったのかも」。落ち着いて対処し、銀メダルをつかんだ。

今年予定されていた東京五輪の1年延期は「非常に残念だが、正しい選択だった」と捉えている。来年に札幌を走る選手たちには「自国開催で重圧がかかるだろうが、冷静にマイペースで頑張って」。自身の経験を元にエールを送る。

現在は北九州市で暮らす。1カ月ほど前に腰ついを痛め、一時は歩くことも困難になったが、再びジョギングができるようになってきた。「まだ少ししんどいけれど、歩いたり走れたりすることが幸せ」。来年3月、円谷氏の故郷の福島県須賀川市で聖火ランナーを務める。親友の分まで、力強く駆ける。【奥岡幹浩】

64年10月、東京五輪の男子マラソンで力走する君原健二
64年10月、東京五輪の男子マラソンで力走する君原健二

◆君原健二(きみはら・けんじ)1941年(昭16)3月20日、福岡県小倉市(現北九州市)生まれ。中学2年から陸上を始め、戸畑中央高を経て八幡製鉄入り。五輪マラソンは東京8位、メキシコ銀メダル、ミュンヘン5位。自己ベスト2時間13分25秒。現役時代に出場した35回のマラソンをすべて完走。現在は北九州市スポーツ大使。趣味で大型自動2輪のハーレーダビッドソンにまたがり58歳から10年ほど全国を回った。今の愛車は小型バイク。

自己新なら胸張り歩ける 期待と違う?知るもんか

1964年東京五輪に出場した競泳女子の竹宇治(旧姓田中)聡子さん
1964年東京五輪に出場した競泳女子の竹宇治(旧姓田中)聡子さん

<競泳女子100背4位 竹宇治聡子さん>

競泳女子の竹宇治(旧姓・田中)聡子さん(78)は「50年以上も前のこと聞いて何になるの?」と冗談めかして言った。来夏を目指す選手は自国開催の重圧、コロナ禍、実戦不足など不安がつきまとう。そんな中でも水泳選手で目指すことはずっと変わらないという。

「競泳は自己ベストが原点。一番大事な試合で自己ベストが出せたら、もう二重丸。メダルがとれたら三重丸だけど、せめて二重丸なら、後ろ指を指されずに生きていける」

高3だった60年ローマ五輪女子100メートル背泳ぎ、1分11秒4で銅メダルを獲得。1936年ベルリン五輪の前畑秀子以来日本女子2人目のメダルだった。「きゃぴきゃぴで、訳もわからず楽しげに泳いだらメダルだったということ」。200メートル背泳ぎでは2度の世界記録も出していた。64年東京五輪に向けて、金メダルの期待は一気に高まった。

「ローマの後で八幡製鉄に入った。高校時代は授業後にずっと練習だったが、社会人は仕事を終えて午後6時から2時間の練習。記録も伸び悩んだ。社会人で競泳を続ける重圧もあった。22歳で『おばさん、まだやってるのか』と言われることもあった」

当時、五輪の女子背泳ぎは100メートルだけ。100メートルと200メートルは違う種目だが「みんな思い違いがあった」(竹宇治さん)と報道は過熱した。東京五輪の100メートル背泳ぎは4位だった。ただ1分8秒6は、22歳にして、自己ベストだった。

「タイムを見て、私は胸を張って歩けると。周りの期待は違ったけど、そんなものは知るもんか。(メダルは)何もないけど、これで胸を張れる、それだけ思った。競泳で自己ベストは最大にして頂点の目標。それは子どもでもオリンピアンでも変わらないでしょう」【益田一弘】

64年10月、東京五輪女子100メートル背泳ぎでメダルを期待された田中聡子は4位に終わり、ゴール後しばしぼう然
64年10月、東京五輪女子100メートル背泳ぎでメダルを期待された田中聡子は4位に終わり、ゴール後しばしぼう然

◆竹宇治聡子(たけうじ・さとこ)旧姓・田中。1942年(昭17)2月3日生まれ、熊本県出身。59年日本選手権で200メートル背泳ぎで世界新を記録。100メートル背泳ぎで60年ローマ五輪銅、64年東京五輪4位。66年に現役引退。現在は都内で水泳教室などを開催している。

自国開催の代表は「特別」金メダルは使命、責任と誇りを

母校広陵高に柔道着などを寄贈した中谷雄英氏
母校広陵高に柔道着などを寄贈した中谷雄英氏

<柔道男子軽量級金 中谷雄英さん>

柔道男子軽量級(68キロ以下)で五輪柔道金メダル1号に輝いた中谷雄英さん(79)は、自国開催の重圧について語った。

79歳のレジェンドは64年大会を思い返しながら、聖地日本武道館に立つ日本代表を「特別」と強調した。「東京五輪は競技発祥国として、日本柔道の強さを世界に証明する場でもある。当時と選手層は異なるが、金メダルは使命。責任と誇りを持ってプレッシャーに打ち勝ってもらいたい」。

戦後復興の象徴だった前大会は男子全4階級優勝が当たり前の風潮だった。「柔道=無差別級」の考えで、他の3階級は「前座」とも言われた。無差別級決勝で神永昭夫がヘーシンク(オランダ)に敗北。「日本柔道が負けた」と報道され、柔道がJUDOへと変わった。「負けたら引退ぐらい追い込まれた。表彰台に上がっても『任務は終わった』という気持ちで涙すら出なかった」。

この56年間で競技は世界中に普及した。女子種目の増設や階級も7つに細分化され、今大会から男女混合団体が初採用される。今年2月までに内定した男女13階級の五輪代表は、コロナ禍の影響でいまだ所属先での稽古が続く。この現状に中谷氏は、心技体の「心」が重要と説く。「口には出さないが、中止や再延期を考えている選手もいるはず。我慢の時こそ心が大切。開催は不透明だが、覚悟を持って、いかに強い精神面で試合に臨めるかが勝負の分かれ目になる」。

来年5月には、地元広島で聖火ランナーを務める予定だ。2年前に胃の一部摘出手術を受け、体重は10キロ減量。2度目の大舞台を見据えて、今年1月から日課の散歩を再開したが、体力低下により断念も検討。五輪金メダルの歴史の1行目に名を刻んだ柔道家は、静かに後輩たちの奮起を期待している。【峯岸佑樹】

64年10月、東京五輪の男子柔道軽量級で金メダルを獲得した中谷雄英(左)と銀メダルのエンニ
64年10月、東京五輪の男子柔道軽量級で金メダルを獲得した中谷雄英(左)と銀メダルのエンニ

◆中谷雄英(なかたに・たけひで)1941年(昭16)7月9日、韓国生まれ。12歳から柔道を始める。広島・広陵高から明大を経て、大学4年時に東京五輪軽量級で金メダルを獲得した。引退後の69年に西ドイツのコーチに就任。96年アトランタ五輪では審判員を務める。小外刈りなどの多彩な足技を使い「広島の姿三四郎」の異名を取る。趣味は散歩とサウナ。165センチ、60キロ。血液型O。

重圧でやり過ぎるのは× 精神力を強く持たないと

64年東京五輪レスリングでフライ級金メダリストとなった吉田義勝さんはメダルを手にする
64年東京五輪レスリングでフライ級金メダリストとなった吉田義勝さんはメダルを手にする

<レスリング・フライ級金 吉田義勝さん>

日本勢が席巻した64年のレスリングで、いの一番に金メダルを手にしたフライ級の吉田義勝さん(78)。1年延期の影響を聞くと、答えはシンプルだった。

「やり過ぎるな」

来夏に開催が延び、現在代表内定の選手は、日本レスリング史上“最速”の内定者となった。最初に当確が出たのは19年9月で、実質2年近くも内定状態が続くことに。「決まっているからこそ、難しい。宿命付けられているわけですね、必ず大会に出ないといけないと。さらに、自国開催ですね。その責任感など、ものすごいプレッシャーだと思います」と察する。

そして、警戒する。「どうしても重圧から、やり過ぎる可能性がある。それが一番だめ」。特にコンタクトスポーツのレスリング。コロナ禍での制限も多い。そこに落とし穴が透ける。「不安になって、できること、特に家でできる筋トレなどをやり過ぎるというのが怖いですね」。

経験がある。吉田さんは東京五輪の約1年前の第1回の代表選考会で敗れた。一時は競技を引退しようとまで考えた。だが、恩師に引き留められ、首の皮一枚の劣勢から金メダルをもぎ取った。徹底したのは「長所を消さないこと」。自身の最大の武器はスピード。日本人初のボクシング世界王者となった白井義男の逸話がヒントになった。「コーチのカーン博士が荷物を持ち運びして『年長者に持たすなんて』と批判が出た時、『重い物を持ち筋肉がつけば白井の特長である切れやスピードが消えてしまう』と反論したそうです」。余計な筋肉がつく練習は全て避けた。

「人によって体格があるので」としながら、「やり過ぎないススメ」はこの成功体験に基づく。情報があふれ、鍛える術には困らないからこそ、慎重な判断がいる。重圧に負けず、その1つ1つの選択が来夏の栄冠をもたらす。「精神力を強く持たないとだめです。実力を認められて代表になっているから、そこに自信を持つと良いんですよ」と呼び掛けた。【阿部健吾】

64年10月、東京五輪レスリングのフリースタイルフライ級で金メダルを獲得した吉田義勝(中央)
64年10月、東京五輪レスリングのフリースタイルフライ級で金メダルを獲得した吉田義勝(中央)

◆吉田義勝(よしだ・よしかつ)1941年(昭16)10月30日、北海道旭川市生まれ。高校からレスリングを始め、日大に進学。4年時に最終選考会の全日本選手権で初優勝し、フリースタイルフライ級で東京五輪代表に抜てき。五輪後に引退して明治乳業(現明治)に入社し、関連会社社長など歴任した。現在は旭川観光大使も務め、全日本マスターズレスリング連盟会長としても競技に携わる。

負けると思うならやめて 勝ちたいなら一生懸命に

64年東京五輪の金メダルをかけた井戸川(旧姓谷田)絹子さん(撮影・松本航)
64年東京五輪の金メダルをかけた井戸川(旧姓谷田)絹子さん(撮影・松本航)

<女子バレー金 井戸川絹子さん>

あれから56年が経過しても、バレーボール女子日本代表がつかんだ勲章は輝いていた。大阪・豊中市内の喫茶店。井戸川(旧姓・谷田)絹子さん(81)は黒のケースから金メダルを取り出し、そこに至る道筋を思い返した。1年延期となった東京五輪観戦を楽しみに、静かに暮らす日々。日の丸を背負う後輩たちへ「日本で一番の人たちですから」と敬意を表した上で「東洋の魔女」は思いを寄せた。

「もし現役時代に1年延期となっていたら、正直に『嫌』と思うでしょうね。『負けると思うなら、やめたらいい。勝ちたいと思うなら、一生懸命やったらいい』。私はそう思います」

「鬼の大松」と呼ばれた大松博文監督の猛練習に食らいつく日々だった。届くはずもない位置に浮くボール。バウンドした後に空で回転レシーブをし、次の場所へ浮くボールを追った。

「『どうせ届かない』と諦めるのが、自分でも許せなかった。例えば10本のうち、2本拾えないとします。次は先生がボールを離す前に半歩、その方向へ走る。それが狙いだったんでしょうね。食らいついて、拾える範囲が広がりました」

東京五輪時に31歳だった河西昌枝主将がけん引し、レギュラー最年少は当時20歳の磯辺サタさん(ともに故人)。25歳で中堅の井戸川さんは、五輪への過程で後輩らを何度も諭した。

「厳しい練習をしていると『もし、ここまでして負けたら…』という気持ちが見える。その時は厳しく言いました。『もし』と思う気持ちが少しでもあれば、そっちに引っ張られます」

テレビ視聴率66・8%を記録し、金メダルが確定したソ連との全勝対決。そこに「もし…」はなかった。

「『勝てるか分からん』とは思っていました。でも『負ける』と考えたことは、一切ありませんでした」

覚悟の必要性は、今も昔も変わらない。【松本航】

64年10月、東京五輪バレー女子でソ連を破り金メダルが決まった瞬間、泣き出す選手も。左から谷田絹子、河西昌枝、半田百合子、松村好子、宮本恵美子、磯辺サタ
64年10月、東京五輪バレー女子でソ連を破り金メダルが決まった瞬間、泣き出す選手も。左から谷田絹子、河西昌枝、半田百合子、松村好子、宮本恵美子、磯辺サタ

◆井戸川絹子(いどがわ・きぬこ)旧姓・谷田。1939年(昭14)9月19日、大阪府生まれ。四天王寺高から日紡貝塚。62年世界選手権優勝、64年東京五輪金メダルにレフトとして貢献。チーム内ではムードメーカー。大松監督に新聞を手渡し「何て書いてあるんや?」と聞かれた際には「『私らを映画に連れていく』って書いてあります」と答えた。引退後はママさんバレーの指導などを行った。