僕はねえ、師匠の林家三平に弟子入りしたのは1964年(昭39)10月15日。東京オリンピックの6日目だったね。大阪・浪速高卒業の、大阪育ちだけど、東京志向でね。立教受けて、落ちたんだよ。あっ、浪速高校のビッグ3って知ってる? 僕と鶴瓶と赤井英和だからね。甲子園出たときアルプススタンドで酔った赤井が「このハゲ~、こっち来い !! 」って叫んだ先にいたのが、鶴瓶だったよ。ごめんごめん、余談が多くてね。その時、出てたのがヤクルトの大引。これも余談だね。ごめんごめん。

 だから、江戸っ子なのに大阪的な三平が好きでね。五輪が開幕する2日ぐらい前から毎日、鶯谷の喫茶店ではがきを書いたの。「入場行進のじゃまじゃない? なんだ、ジャマイカ人か !! 」「やりが置いてあるよ。やり投げの人はやりっ放しだな」「いい男じゃない、何してるの? 砲丸投げ !?  紅顔の美少年か !! 」なんてのを毎日書いて、根岸の三平の自宅のポストに入れたの。これが秘策なのよ。直接持っていくのがいいの。消印ないんだから。インパクト大きいよ。

 そのうち、香葉子さん(三平夫人)が出てきたの。「あなたが佐藤君(本名)? お父さんは有楽町にいるから行ってみたら」って、教えてもらって訪ねたら三平が「君が佐藤君? いつもありがとうね。付いてきなさい」って、その日から付き人にしてもらったの。

 オリンピックの真っ最中でね、東洋の魔女が頑張ってた。四谷の文化放送で三平がテレビで応援始めて、次の仕事先の河田町のフジテレビに行こうとしない。電話がかかってきても「車が故障して動かないんだよ」って言い訳するけど「頑張れ~」って声が聞こえるから、どうもすいません !!

 でも、五輪期間中は毎日、信濃町の慶応病院に香葉子さんと通ってたね。仲人の三遊亭金馬師匠(3代目)が重い病で入院してたんだよ。金馬師匠は東京大空襲で焼け出された香葉子さんを引き取って育ててくれた。病室にいるとね、代々木の方から「うわ~」って歓声が聞こえてくる。金馬師匠が「香葉子…。今、オリンピックやってるんだな」って。五輪が終わって、11月上旬に亡くなられたんだけど、強烈な思い出ですよ。いっぱいいろんなことを思い出すねえ。いつも余談ばかりなのに、余談もできないよ。ごめんごめん。


(2017年12月20日東京本社版掲載)

【注】年齢、記録などは本紙掲載時。