国軍がクーデターを起こしたミャンマーから東京五輪出場を目指していた競泳男子自由形のウィン・テット・ウー(26)が3日に日刊スポーツのオンライン取材に応じ、自ら出場辞退した理由を語った。弾圧により750人以上の犠牲者が出ている国内の現状に異議を唱え、自国の旗を付けての出場を拒んだ。五輪参加を容認する国際オリンピック委員会(IOC)には、軍事政権のミャンマーを排除するように訴えていく。【聞き手=平山連】

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移住先のオーストラリアから五輪出場に向け準備してきたウーは「軍部による独裁政権が廃止されない限り、ミャンマー代表として出場することはありません」と、きっぱり言った。表情に後悔の色は見えない。それでも「難しい決断だった」と語った後、ため息が漏れた。

ミャンマーでは今年2月1日に国軍によるクーデターが発生。ウィン・ミン大統領や与党の国民民主連盟(NLD)を率いるアウン・サン・スー・チー氏が拘束された。抗議するデモ参加者は軍の弾圧を受け、人権団体によるとこれまで750人以上の犠牲者が出る事態となっている。

ウーは4月10日に自身のフェイスブックで、目指してきた五輪出場を自ら辞退すると報告。他の利用者からは「勇気ある決断を誇りに思う」「私もあなたと共にいます」など好意的なメッセージが寄せられた。

-なぜ五輪出場をボイコットしたのか

ウー クーデターで民主派のリーダー、ミュージシャン、アーティスト、アスリートなどが次々と指名手配され、逮捕されました。軍部による暴力で数百人の犠牲が出ている。そんな状況の中でオリンピックに行くことは、軍部のプロパガンダに利用されるだけです。

-50メートル自由形で出場を目指していた

ウー 2019年の大会(東南アジア競技大会)の50メートル自由形で22秒62を出して、標準記録を突破しました。オリンピックはミャンマーのアスリートの力を発揮する絶好の機会。国を代表して戦うことに誇りを感じていましたが、今は違う。国民の代表ではなく軍部の代表になってしまいます。

-決断を下す前に誰かに相談したか

ウー 両親に相談しました。一緒にオーストラリアにいながら、オリンピックに向けてサポートしてもらっていました。「あなたは正しい」と背中を押してくれました。

-投稿後の反応はどうだった

ウー 日本だけではなく世界中のメディアから連絡をもらいました。ミャンマーオリンピック委員会(MOC)の背後にある軍事政権は虐殺に関与しているので、オリンピックムーブメントとはかけ離れている。IOCのような国際的に影響力がある団体が、正当性が担保されていないと明確なメッセージを出してほしかった。

その訴えは、まだIOCに届いていない。IOCは「ミャンマー・オリンピック委員会は東京五輪に向けたチームの準備に引き続き注力しており、資格のある選手は全て参加者として選ばれることを再確認した」と発表。逆にウーについては「私たちの知る限り、五輪の標準記録を得ていない」との認識を示した。

ウー MOCが代表を選ぶ前に自分から辞退しました。IOCは今もMOCの正当性を主張しているけど、私は信じません。

17年に母の親戚がいるオーストラリアに移住。競泳施設で監視員の仕事をしながら、合間にプールで泳いだり、ジムでトレーニングをしてきた。「1日12時間くらいプール内で過ごすかも」と笑う。

-コロナ禍で五輪1年延期をどう過ごした

ウー 住んでいるメルボルンも一時はロックダウン(都市封鎖)して、練習ができずモチベーションを維持するのが難しかった。延期となった五輪でミャンマー国民のために自分のベストな泳ぎを見せたいと、本大会でもセミファイナルに進める可能性がある22秒00を目指して練習していました。

-ミャンマーにはいつ帰るのか

ウー 渡航制限が解かれたら、ミャンマーに戻りたい。だけど軍事政権が続いていれば、戻れない。

-競技はどうする

ウー 泳ぐことは好きだし大会にも出たいけど、民主的な国家に戻らなければ国際大会には出るつもりはありません。

-今心配していることは

ウー 国内のアスリートの状況を調べているが、全く動向が分からない。有力選手の中には軍事政権に反対を表明した人もいるけど、その後どうなっているのか。ジャーナリストの情報が頼りだけど、日々何が起きているのか知るのはとても困難です。

-今後の方針は

ウー IOCにもミャンマーの問題をきちんと認識してもらったり、多くの人に知ってもらうために、僕は訴え続けます。

◆ウィン・テット・ウー 1994年6月8日生まれ。スイミングスクールに通う姉の影響で、6歳で競技を始める。13年にミャンマー競泳男子代表として国際大会に初出場。19年の東南アジア競技大会50メートル自由形では22秒62を出し、国際水泳連盟の公式サイトでは五輪標準記録を突破したことになっている。引退後は、スポーツマネジャーとして自国のスポーツ界の発展に貢献する夢を持つ。